STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

岸辺に立って

 瑞泉寺(ずいせんじ)は京都市中京区にあって、山号を慈舟山(じしゅうざん)と言った。創建は慶長16年(1611)、江戸時代の最初期にあたる。
 京阪電車三条駅で降りて、鴨川をまたぐ三条大橋をわたってしばらく進むと高瀬川が見えてくる。そこをわたらないで左に折れれば、両側をコンクリートの建物に挟まれたそのお寺が建っている。
 決して大きくはないけれども、提灯を下げた立派な山門が口を開けていてどこかしっとりとした石畳が敷かれてある。
 境内に入ると前方左手に東屋風の建物があって、そこにお寺に関連した資料が展示されてある。奥には本堂、そうしてその本堂と植え込みを挟んで反対側に、向かい合う形で整然とならんだ石塔が建っている。五輪の塔、五輪卒塔婆などと言うらしい。
 その石塔は、かつて打ち首にあった30余名のひとびと、それに10名の家臣の墓であった。そこには他に豊臣秀次(とよとみひでつぐ)の墓石も建っている。ここは、そのかれらの菩提を供養しているお寺であるのだった。
 かれらは、そうして瑞泉寺建立の起因は、世に言う秀次事件とかかわりがあった。
 文禄4年(1595)7月、秀次は当時の権力者であり叔父でもある豊臣秀吉から謀反を疑われ、高野山に追放される。そうしてそのまま切腹命令をつたえられその日に切腹をした。
 事はそれだけにとどまらず、秀次の首は三条河原でさらされ、さらにはかれの一族がそこで打ち首にされていった(資料によりその人数は増減する)。こどもにいたっては二度、竹槍で胸を突かれている。遺体は河原の穴に投げ込まれ埋められた。その上に塚が、さらに塚の上に秀次の首をおさめた石櫃が乗せられ、その石櫃には「秀次悪逆塚」という文字が切腹した日付とともに刻まれたのだった。
 当時の鴨川は今よりまだ幅がひろかったらしい。
 刑場は現在の木屋町通から先斗町歌舞伎練場前につながる道路の付近であったようで、いまではそこが河原であったことなどおもわせるものもなくすっかりと様変わりしている。
 その後秀次の塚はほとんどかえりみられることもなく建っていたらしく、さらには洪水によってどこぞへながされ消えていった。
 それを角倉了以(すみのくらりょうい)という豪商が、高瀬川を開く工事をしていた際に偶然発見した。かれは秀次とその一族の菩提を弔うためお寺を建てることとした。それが瑞泉寺にあたる。お寺の名称は秀次の戒名からとられたものだった(「瑞泉寺殿高巌一峰道意」)。
 角倉了以はその際石櫃に刻まれていた「秀次悪逆」の文字を削り、六角形の無縁塔を乗せて建てた。それが境内の一角にあり、しずかに、昔を今につたえている。
 とおい過去の、現代ではまったく実感のわかないそんなことのあった時代を生きていたひとびとは、墓石と同化でもするようにしてずっと黙している。語ることのないかれらは、さまざまの文献や資料によって語られること以外、自分たちのこの出来事をつたえる術を自分たちで持ち合わせてはいない。かれらの多くは辞世の句を詠んでいて、それは唯一当事者自身の語り得た心情であったかもしれないけれども、特にこどもたちなどはおもいを残す暇など与えられることもなかった。
 この出来事については、より詳しく当たろうとおもえば当たれるだけの資料は幾つもあって読むことができた。
 秀次切腹の前後や、三条河原での公開処刑の一部始終、だれとだれの思惑がうごいていたかなどどれもが詳細に書かれてあって大いに興味をひいた。ただ、そのほとんどが豊臣秀吉を主体とした形の、或いはその後の関ヶ原の戦いをより深く知るための、補足としての立場ですまされているものだった。言ってみれば、語るべきは常に秀吉や歴史の側にあって、今もかれらは(もっとも打ち首にあったのは大半が女性であるからここでは彼女らと呼ぶ方がふさわしいのかもしれない)それらの付属物としてしか語られないように見えてしまうのだった。
 かれらをもうすこしばかりかれらそのものとしてあつかうことはできないのか、この、いつまでも目につく秀吉やら歴史やらを可能なだけ脇に置いといたまま、ただかれらの死、今死者であるかれらそのものを、今を生きている人間の立場から目を向けることはできないのであろうか、そんなおもいがわいてくる。
 一般には秀次に、家臣や彼女たち自身に、処刑されるなにか謂れがあったかどうかが詮索されるところだろうけれども、そういった歴史的検証はすっかり他の資料にまかせて、ここでは単純に、なにをするでもなく目をつけられて巻き込まれていった多くの亡くなったひとびとがいるという事実に感じ入り、想いを馳せてみたかった。
 かれらの残したことばからなにかくみとれるものもあるかもしれないけれど、残せなかった者たちのことも想うとき、それも関係者でも京都が地元でもない他所者の人間がそんなことをするなら、まずはあらためて、かれらとおなじようになるたけ気持をしずめて黙することがよいとおもえた。そうして黙してこそ、ことばや先入観の奥にかくれていた整然と建ちならぶ石塔がたしかに存在していることに気づけて、その光景こそがかれらが生きているひとにつたえてくれているおもいのように受けとろうとこころみられるのだった。
 もしかすればかれらは、生きているひとが生きているひとにするように語りかけてもらい、かれら自身も語りかがっているのかもしれず、また、だれの目にも触れられることなく、特に関係のない人間とは余計に接したくなくてそっとしておいてもらいたいのかもしれない。
 死者を想う、なぜもどうしても失われた相手を想う、それはひとえにこちらの想像力にかかっていると言える。それもできるだけ自分の都合の押しつけがないように注意をはらいながら、自分が光をもって相手に向けるのではなく、まるで星から光を受けとるように、死者を光として、その光にいのちが照らされ、影としての生きているこちらの姿が立ち現れてくるように――生者は常に死者に生かされている存在ととらえながら――相手との関わり合いのなかで受け身としての想う力を活かしてゆく必要があるのかもしれない。
 ここに多くの方がねむっている。偶然にもそんなかれらに出会えた他所者の人間にとっては、そんな人間なりの弔いや祈りがあるのではないかとのおもいも浮かんでくる。
 たとえばなにかの事件があれば、真相をつぶさにさぐり、深く関わり、そんな風にしてよりその事件をひろく語ろうとするひとびとが出てくる。なにかをしてあげたいとおもうのが人情であり、そのおもいやりが多くの当事者を慰めることにつながる。ただそんなときに他所者であるひとは、無関係性を充分に自覚しながら想いだけは秘めておきつつ、全然関係のないところで関係のないことをこなしてゆくにかぎる。なにかをしてあげるひとがいれば、他方でなにもせず黙っているひとがいてもいい。それが時になにもされたくない当事者たちのためになり得、そうしてそのなにもしないしずけさこそ外側にいる人間の励ましともなり得る。
 そんな関係のないことが、ふとした偶然で当事者の知ることとなり、なんらかのためになることもあるかもしれない。それは全然関係もない偶然だからいいわけで、それらはすべて相手にまかせ、こちらは起こったことなど知るよしもなくただ単に関係のないことをこなしてゆければいい。そうおもった。
 ここでふたたび高瀬川の開拓者角倉了以に想いをうつせば、かれには吉田宗恂(よしだそうじゅん)という実弟がいて、実は秀次に仕えていたことがあったらしい。吉田宗恂は事件にこそ巻き込まれていないものの、慶長15年、高瀬川工事の前年に亡くなっている。
 角倉了以が秀次の首塚を見つけたのは偶然らしいものの、これはともすれば必然的な巡り合わせともとれる発見かもしれない。工事の年は宗恂の一周忌にもあたるため、了以にはなにか忍ぶおもいがわいてきたものと想像する。
 石に刻まれた「秀次悪逆塚」との文字を角倉了以はどのようなおもいで見つめたのだろう。そうしてその文字を削りとった行為は、秀次や弟宗恂のおもいを、かれらそのもののおもいをわずかでも消さないようにとの、かれのこまやかな弔いの形であったのかもしれない。
 そのような、死者のそばにちかいかれこそが、そこにねむるひとびとにとって安心のできる存在だろうと感じた。こうして昔の死者を想うと常に与えられていることばかりだということにも気づく。

 新京極や鴨川沿いに賑わいをまかせながら、瑞泉寺は、きょうも秀次とその一族、家臣たちの菩提を、敷きつめられた白い石や緑をたたえる植木とともにひっそりと供養している。

 

 参考文献
  丘 眞奈美 『京都「魔界」巡礼』 2005年・PHP文庫