STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

賢治と辰雄 「ほんとうのさいわい」について

 わたしはここで、堀辰雄宮沢賢治、このふたりの作家が残したものに助力をもらいながら、ふたりを考察している方々の意見も借りつつ幸いについて手短に一考したいとおもっている。


 まずは賢治のことから始めたい。
 宮沢賢治は「ほんとうのさいわい」を探した作家として語られることがある。
 かれの作品にはそれらに関することばがいたるところにちりばめられており、特にかれの代表作である『銀河鉄道の夜』はこの希求に満ちている。ここに印象的な作中のセリフを引用したい。
 

「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」
 燈台守がなぐさめていました。
「ああそうです。ただいちばんのさいわいに至るためにいろいろのかなしみもみんなおぼしめしです。」
 青年が祈るようにそう答えました。
  

 この、賢治による「ほんとうのさいわい」を求める旅は、妹トシを亡くしてから一段と強みを増したと言えるかもしれない。
 賢治より二つ下の宮沢トシは、大正11年、結核により25歳で亡くなっている。
 親身になって看病した賢治は相当に衝撃を受けたらしく、妹の遺骨を一部持ち出したり詩群を書いたりしている。賢治にとって妹のトシは、自分のよき理解者であり、最愛のひとであるとともに、ほとんど唯一の「ほんとう」を求める同志であったのかもしれない。それ故に妹の死は賢治には耐えられないものだった。
 もしかすれば、賢治自身の「ほんとうのさいわい」とは、最愛の同志トシと共に「ほんとう」や「まこと」を追求する過程そのものであったと言えるかも知れない。
 それが妹の喪失によって、そもそもこの世にトシ本人を見つけることもできなくなってしまった。かれが遺骨を持ち出したり詩を書いたりしたのも、どうにかして「ほんとうのさいわい」である妹を探し続けたかったからであり、妹の死の整理のつけ方を見出したかったからとも言える。ただ、もうもどってこないひとが本当はどこにいるのか、なぜ亡くならなければならなかったのかの理由なんていくら探してもわからない。「ほんとうのさいわい」とはなんなのか、それはどこにあるのか、かれはぐるぐると迷いつつ悩みつつ、そうして多分、ついに見つけることはできなかった。
 
 
「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
 

 『銀河鉄道の夜』にはこんなやりとりもあり、なにかそれはそのまま賢治自身のすなおな気持であったと受けとれる。
 この作品は四形態あると言われている。
 大正12年頃に第一次稿が書かれて以来、賢治は昭和8年に亡くなるまで三度の大幅な改稿をしたことがしらべられている。そうして生前はほぼ無名のまま夢半ばで倒れた本人のように、この作品も未完の形で残ることとなった。
 まさに『銀河鉄道の夜』の内容や在り方は、「ほんとうのさいわい」がわからないままそれでも求めつづけた賢治の人生そのものの姿とも言える。そんな賢治は「永久の未完成 これ完成である」ということばも残しており、それは自身の思想であるとともに、これまでをふりかえり、そうしてこれからをも想像したときに、どこか諦めのある、どこか達観した人生の要約であったのかもしれない。未完成故の完成といった、矛盾なしには成立し得ない作品が『銀河鉄道の夜』であり、賢治の生涯であった。
 
 ここで話を変えて、今度は堀辰雄が残した手紙について書いてゆきたい。
 昭和13年2月、堀は前年に出会った、後の妻となるひとに手紙をしたためている。堀には矢野綾子という先妻がいた。この女性に関する部分を、幾分長くなるもののその手紙から引用したい。
 

 さつき書かうと思つてゐて忘れましたが、綾子は死んでゆく前に、僕のゐる前でね、お父さんに僕にいい人を持たせて上げて下さいと言ひ残していつたのです。それがもう最後の言葉になりはしないかと思ふほど、死を前にして苦しんでゐましたが、それから突然「お父さんも本当に好い人だつたし、辰ちやん(綾子もいつのまにか僕の事をさう呼んでゐました、君もそのうち僕をさう呼ぶやうにさせてやるから)も本当に好い人だつたし、私、本当に幸福だつた」となんだかそんな苦しみの中から一所懸命になつて言つて、それからそのまま最後の死苦のなかに入つていきました。人間の最後の願望といふものは恐ろしい力を持つてゐるものだと、ラフカデイオ・ハアンだかが書いてゐましたが、それは確か人を呪ひながら死んでいつた者の話だつたと思ひますが、それと反対にそれがたとひ生き残つた者への気やすめに言つたにせよ、私達のために本当に幸福だつたと最後に言はれたら、その瞬間からその生き残つた者たちはこの世に幸福といふものがあるのだといふことを信ずるやうな気になると見えますね。


 つづけて堀は、自分は人生に対してかなり懐疑的であり生きることの不幸を信じさせられてきていたとつづりながら、ただ矢野綾子のそのことばにより、だれでも幸福の瞬間を持ち得ることを信じるようになったと心境を語っている。
 堀はそうやって、矢野綾子の存在によりともすれば生きることそのものをも肯定できたのではないだろうか。その姿勢は、たとえば「死にたい」とおもわなくなることや、そんなかんがえを否定することとはちがい、その「死にたい」という感情でさえ、肯定しようとおもえた生のなかにおけるひとつの欠かすことのできない肯定し得る気持として、つまりひとが生きるあいだ中に抱くあらゆる感情は、肯定し得る生のいとなみから生まれるものなのだからそのすべてが肯定に値するといった幸福観でもって、そんな風に今後の人生をとらえ得たのかもわからない。
 矢野綾子は昭和8年夏、軽井沢にて堀辰雄と巡り会い、翌9年夏に婚約、けれども昭和10年12月、肺結核により亡くなっている。25歳であった。
 彼女が軽井沢にいたのは当時そこが有数の療養地であったからで、彼女はみずからの病気を癒やそうとおとずれ、そこでおなじ結核を患って静養していた堀と知り合ったのだった。病気がふたりをつないだ、と言ってしまうと、病に苦々しいおもいを抱いているひとからしたら耳障りに聞こえるかもしれないけれども、ふたりにとってはその病が或いはかけがえのない縁となったのかもしれない。
 矢野綾子は作家でも歌人でもなく、文学や堀辰雄にくわしいひとたちにとってのみ、堀の身近にいてかれに影響を与えた言うなれば「薄幸の少女」の映像として語られるばかりと言っていい。
 そういった彼女が、賢治が生涯かけて見つけることのできなかった本当の幸福を、かれよりもさらに短い生涯のなかで、それも死の間際で、堀の書いた手紙からことばを借りれば「みんなのもつてゐる不幸の最高の形式としてさういふ最高の瞬間をもち得」た、つまりは見つけることができたのだった。
 こういった経緯におもいをはせると、矢野綾子に対して張りついていた「薄幸の少女」像なんかよりも、大切なひとを前へ前へと生きさせようとする懸命な力強さをもった、先の堀のことば風に表現するなら、はかなさの最高の形式としての一途なたくましさを秘めた少女であるとおもわずにはいられない。
 こうして矢野綾子は本当の幸福を感じ、人生の不幸ばかりを信じていた堀辰雄も彼女によって本当の幸福を味わうことができたのだった。本当の幸福とは見つけるものではなく与えるものであるのかもしれない。
「ほんとうのさいわい」なんて実体のない、そもそもが理想と妄想の産物で有り得ないものだというひともいる。
 そんな実体のつかめないものであっても、それを実感してほしいと願うひとの元へことばとして贈ることはできるのではないだろうか。とても脆弱ではあるけれども、ことばそのものとして届けることは可能性がある。「あなたがいて本当に幸福だった」とことばで贈られたその実感が、ことばを与えられたひとにとってなによりもかけがえのない「ほんとうのさいわい」になってゆく。大切なひとからのことばは必ず届けられたひとの胸に残って、そうしてどんなときもどこまでも心棒として人生の支えとなりつづける。矢野綾子と堀辰雄がそれを教えてくれている。
 
 堀辰雄が先妻から与えられ、後の妻へと書き送った手紙の載っている本は今ではもう絶版となってしまったけれども、残された本たちが、細々とでもいいのでこれからもひとの手に触れられて読まれてほしいと願っている。同時に、「ほんとうのさいわい」を見つけられなかったが故に書き残された、そのさいわいを求めつづけた跡とも言える宮沢賢治の数々の作品も、読んだひとそれぞれへの幸福のヒントに成り得ることもあるだろうから、これからも折りに触れて手にとられる作品でありつづけることを願い、この一考をここで締めくくることにしたい。
 
 
 
 
(尚、堀辰雄宮沢賢治両氏の作品は、ともに新潮文庫から引用したことをここに附しておきます。)