STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

文学実験

 文学実験などと大袈裟に銘打って、ここでは、他愛ないおもいつきを書いてみることにしたいとおもっている。もちろんおもいつきだから、根拠とか論理とか、そういったものはうっちゃれるだけうっちゃっといて、アテのない想像でもって表現してゆきたい。
 絶対零度、という温度がある。
 -273,15℃がそれにあたり、かんがえうる最低の温度とされている。ちなみにこの値は、セ氏と呼ばれる日本人一般に馴染みのある温度表記で、これともうひとつ、単位をケルビン(K)とする表記のものもあって、こちらはこの絶対零度を0として目盛りが定められている。ほかに華氏表記もある。
 この温度下ではあらゆる分子、原子のうごきがなくなってしまうらしい。とすると、ここでひとつの疑問が浮かんでくる。絶対零度では、果たして時間でさえ凍りついてしまうのだろうか。
 それというのも、今日における1秒の定義は「セシウム133原子の基底状態にある2つの超微細準位の間の遷移に対応する放射の9192631770周期の継続時間」となっているらしくて、それが1967年に国際度量衛総会できまったらしい。これを国際原子秒と言っている。
 時間の基準をこの秒として、その秒が原子のうごきを基準としているのであれば、原子のうごきさえ止まる絶対零度中においてはこれだけを聞くに時間も止まることになる。実際そのセシウム原子が何度で活動しなくなるのかはともかく、-273,15℃に入った時間は、その瞬間には消えてしまう。ふつう気温が低ければ低いほど物体は固まり凍ってゆくけれども、時間でさえ最終的には凍結する。これをむしろ、時間だけは絶対零度下においてのみ気化して溶けてしまうと表現してみるならなかなか文学的でおもしろい。
 時間が止まる、ないしは消える。時間とともにある人間にとってそれはなかなか想像しにくいことではあるけれども、ただひとは昔からいろいろな作品で時間が止まったなくなったといった話を夢に見て表現してきた。たとえば、自分以外のひとが静止している描写などがある。時間を奪われて成長が止まったり、おなじ日を何度もくりかえしたりといったものもある。
 すこし、化石をながめるのと似ていると言えるのかもしれない。おなじ現在という時間のなかにありながら、見つめる方はまさにその現在者として生き、みられる方の化石はずっと昔の過去のものとしてとらえられていて現在性を消失させられてしまっている。ひとはそこに白亜紀ジュラ紀を見ていて、おなじ時計をもったものとは、なんというか若いひとが年配の方を見るようには、受けとらない。極端なほど時差のあるもの同士が同一の空間上にいる、とでも言うのだろうか。
 こうなると、化石とは時間の固体化とでも表現できるのかもしれない。時間にも液体、気体、固体があるのかどうかは物理学的よりも文学的な考察の方が妥当だろうけれども、仮に絶対零度がこのように化石みたいに見学できるものなら、絶対零度の外側には時がながれ、内側は止まっているという、これは台風の目とも言えそうなあるけどないという空間ができあがることになる。
 ひとは、いや動物でも植物でも、それらはみんな時間とともにあって時間そのものとも言える。物体は時間であり、そうして時間は空間であり、さらには空間は物体であるなら、絶対零度があらわれるというのは、水が凍ったままそこにずっと凍りつづけるというより、或いはほんとうになにもかもが消えてしまうことを言う方がちかいのかもしれない。絶対零度は実は夢の温度で、もしかすれば幽霊の世界の温度、唯物的なものの裏側であったなら尚のことおもしろい。
 ところで、現段階ではこの状態をつくりだすことはできていないらしい。つまりいまだ絶対零度は推論のなかにあるものとなる。
 先に絶対零度を台風の目としてとらえてみたけれども、-273,15℃という温度はそもそも実際にはなくて、-272℃以上の、つまりはこの温度までが宇宙に存在できる最低の温度としてあって、それらの温度が絶対零度を取り囲むようにすることによってはじめて見えてくるものである、ととらえてみると、これは同時にドーナツの穴とでもかんがえてみることができる。台風はドーナツが上空を突っ切るようなものかもしれない。それはさておき、絶対零度がこれからもずっと円周率のように解きがたいものだとすると、温度ある人間には或いはずっと見ることがかなわないかもしれないとおもったりもする。
 こんな風にして絶対零度下での時間についてぐるぐるとかんがえてみたけれども、どうやら量子力学という分野では、不確定原理というもののためにエネルギーは最低の温度状態でも零点振動といったことをしているらしい。要は、時間はそれでもうごきつづけるということか。
 なんだか最近では次世代時計となる光格子時計などもあるらしく、これが国際標準として採用となれば時間のかんがえもかわり、絶対零度のとらえ方もはっきりしてくるものとおもわれる。むしろ絶対零度もことばのように、自然界にはそもそも振動のような形くらいにしか存在していなくて、人間の勝手につくったドラマかもわからない。
 そういえば、絶対零度を調べている途中で通称『4分33秒』と呼ばれている曲があることを知った。
 1952年、ジョン・ケージというひとが作曲したもので、楽譜はあるものの無音の音楽、奏者がこれといって楽器を奏でず音が鳴らないものとなっている。
 4分33秒を秒に直すと273秒となり、無音ということもあって、これは絶対零度の音楽だというひともいたそうだけれど、作曲者には果たしてどんな意図があったのだろう(実際には完全な無音というより、その演奏時間中に、本来奏でられるはずの楽器ではない、普段何気なしに聞きながしている言わば生活音自然音を聞く意味がこの曲にはある、という見解もあるらしい)。
 そんな絶対零度があったりできたからといって、日常の生活になにかプラスになることが、或いは温度が温度なだけに極度のマイナスになることがあるのか、それはともかくとして、絶対零度というかんがえ自体はいまもあちこちの創作物のなかに取り入れられそれらを活かしている。もしかすればそれらの作品には絶対零度特有の4分33秒が気づかれることなくながれているのかもしれない。