堀辰雄文学記念館を出る頃には天気は持ち直したようだった。ときどき晴れ間も見えて地上に光も降り注いだ。
とても素晴らしい施設だったけれども、いかんせん寒すぎた。もちろんストーブはついていた。ただここに来るまでに体を冷やしてしまっていたのでなかなか体があったまらず、正直最後の方は展示物に注意が向かなくなっていた。体が芯から冷える、とはこのことだ。もっとじっくりしていく予定が、まるで足に氷でも突っ込んでいるみたいだったので早くどこか暖かいところで温かいものを食べたかった。
とまあそんな情けない理由で、ひとまずぼくは旧中山道を歩いて目に止まったラーメン屋でラーメンをいただいた。比喩でもなんでもなく料理の暖かさが身に沁みた。すなおにうまかった。こんなときに食べるものほどおいしいものはない。
元気をいただいたぼくは、その足で分去れの道まで歩き、それからその近くに建っているというシャーロック・ホームズ像まで足を伸ばした。
どうやらコナン・ドイルのこの名作を訳した場所がここ信濃追分らしく、それにちなんで銅像を建てたことが案内板に書いてあった。
精巧に造られたホームズは(まあ実在の人物ではないので似てるもヘチマもないけれど)パイプを燻らせながら遠くを見つめていた。それはどこか自分の故郷、大英帝国でも夢見ているような、そんな遠くを見つめる眼差しだった。ホームズファンならツーショットと意気込むだろうけど、ぼくはなんだか、こんな高原の静かな場所でひとり佇みながらおもいにふけるホームズに遠慮して距離を取りながら眺めていた。
そんな名探偵から助力を得ながら、ぼくは堀辰雄が好きだったという石仏に会いにいくことにした。
始めのうちは、どこかのカフェでさらに暖まりながらのんびり午後の時間を過ごそうかと考えていた。晴れ間が出てきたといったって、外はまだまだ寒い。そうして時々雨もぱらついていた。
本来なら行ってみたかった油屋旅館や古書追分コロニーも冬だからか閉館中で、記念館を出てしまうと所在がなくなってしまった。旧中山道をぶらぶらするのも体温と体力とが奪われる。だから必然施設に行きたくなる。カフェならそれにうってつけだった。
ただ昼食にあり着く前、この道沿いにお寺があり、そこに『樹下』に出てくる石仏があることを知って驚いてしまった。
そんなこと、ちゃんと作品を読んでいればどこにあるのかくらいわかるはずのものだが、ぼくはただ単に作品そのものの雰囲気や堀の文体に味わい深いものを覚えただけで満足していて、その石仏が実際にどこにあるかなんて気にも留めていなかった。強いていうなら信濃のどこかにあるとテキトーに認識していたくらいで、ろくに調べもしなかった。作品の内容なんていつでもうろ覚えだ、と我ながら呆れてしまった。
せっかくその石仏が目と鼻の先にあるのに、寒さを理由に断念するのは非常にもったいないことだとおもい、そこまでは行くことにした。
そうして着いたのが泉洞寺という名前のお寺だった。
「歯痛地蔵」と紹介されている堀辰雄の愛した石仏は、旅人を迷い込ませるかのように山門から離れたところにあって、今も樹木の下で頬をおさえながら首を傾け、その歯痛に、まるでそれが自分の瞑想法と言わんばかりにじっと耐えていた。石仏の座る台には小銭が数枚置いてあり、今でもここに祈願に来るひとのいることを伝えている。
その造りはとても素朴で、ぼくみたいな彫刻に詳しくない人間からしたらなにかの練習用で造られたか素人が彫ったと疑いたくなるほどの手抜きにさえ感じられる。でもそれが故の妙な味を出しているからか堀じゃなくてもついつい好ましさを誘われる。痛みにずっと耐えているのか、或いは眠りこけそうなのをじっと耐えているのか、そんなどっちつかずの、或いはどっちとも取れるような、まあよく言えば微笑ましく悪く言うなら間の抜けた姿だ。
季節が季節なので、石仏のまわりはたくさんの枯落ち葉でいっぱいだった。
ここはお寺の裏側、それでいて墓地の入り口近くなので、あたりはより一層しんと静まり返っているような雰囲気だった。そんなお墓だらけの中に混じって、この石仏がこうしてただひとり瞑想している。ずっと見ていると、なんだかこの墓地一体を守っている仏様にもおもえてくる。いや、守っているというよりも死者とともに石となりて鎮魂しているようにさえ見えてきた。それはさすがにぼくの錯覚だろうが、そういう色眼鏡で見つめていると、どうにも鎮魂仏のようなものにも感じられてくる。墓地に、それも冬の季節のまだ時々小雨の降っている雲の多い日の墓地であるというのに、そんなことにはまるで無頓着の様子で佇んでいるその姿には身近な親しみや安らぎを覚えた。
こんな静かな場所で、樹木の下で、時間になんて知らんぷりしているみたいに石化した死者たちとともに佇んでる落ち葉の中の石仏、もう70年以上も前に亡くなった堀辰雄がいたことを教えてくれるものがここにもあることに、ぼくは少しの間だけしみじみと感じ入っていた。