『樹下』に寄せて(暮れの旅、4)
堀辰雄文学記念館を出る頃には天気は持ち直したようだった。ときどき晴れ間も見えて地上に光も降り注いだ。
とても素晴らしい施設だったけれども、いかんせん寒すぎた。もちろんストーブはついていた。ただここに来るまでに体を冷やしてしまっていたのでなかなか体があったまらず、正直最後の方は展示物に注意が向かなくなっていた。体が芯から冷える、とはこのことだ。もっとじっくりしていく予定が、まるで足に氷でも突っ込んでいるみたいだったので早くどこか暖かいところで温かいものを食べたかった。
とまあそんな情けない理由で、ひとまずぼくは旧中山道を歩いて目に止まったラーメン屋でラーメンをいただいた。比喩でもなんでもなく料理の暖かさが身に沁みた。すなおにうまかった。こんなときに食べるものほどおいしいものはない。
元気をいただいたぼくは、その足で分去れの道まで歩き、それからその近くに建っているというシャーロック・ホームズ像まで足を伸ばした。
どうやらコナン・ドイルのこの名作を訳した場所がここ信濃追分らしく、それにちなんで銅像を建てたことが案内板に書いてあった。
精巧に造られたホームズは(まあ実在の人物ではないので似てるもヘチマもないけれど)パイプを燻らせながら遠くを見つめていた。それはどこか自分の故郷、大英帝国でも夢見ているような、そんな遠くを見つめる眼差しだった。ホームズファンならツーショットと意気込むだろうけど、ぼくはなんだか、こんな高原の静かな場所でひとり佇みながらおもいにふけるホームズに遠慮して距離を取りながら眺めていた。
そんな名探偵から助力を得ながら、ぼくは堀辰雄が好きだったという石仏に会いにいくことにした。
始めのうちは、どこかのカフェでさらに暖まりながらのんびり午後の時間を過ごそうかと考えていた。晴れ間が出てきたといったって、外はまだまだ寒い。そうして時々雨もぱらついていた。
本来なら行ってみたかった油屋旅館や古書追分コロニーも冬だからか閉館中で、記念館を出てしまうと所在がなくなってしまった。旧中山道をぶらぶらするのも体温と体力とが奪われる。だから必然施設に行きたくなる。カフェならそれにうってつけだった。
ただ昼食にあり着く前、この道沿いにお寺があり、そこに『樹下』に出てくる石仏があることを知って驚いてしまった。
そんなこと、ちゃんと作品を読んでいればどこにあるのかくらいわかるはずのものだが、ぼくはただ単に作品そのものの雰囲気や堀の文体に味わい深いものを覚えただけで満足していて、その石仏が実際にどこにあるかなんて気にも留めていなかった。強いていうなら信濃のどこかにあるとテキトーに認識していたくらいで、ろくに調べもしなかった。作品の内容なんていつでもうろ覚えだ、と我ながら呆れてしまった。
せっかくその石仏が目と鼻の先にあるのに、寒さを理由に断念するのは非常にもったいないことだとおもい、そこまでは行くことにした。
そうして着いたのが泉洞寺という名前のお寺だった。
「歯痛地蔵」と紹介されている堀辰雄の愛した石仏は、旅人を迷い込ませるかのように山門から離れたところにあって、今も樹木の下で頬をおさえながら首を傾け、その歯痛に、まるでそれが自分の瞑想法と言わんばかりにじっと耐えていた。石仏の座る台には小銭が数枚置いてあり、今でもここに祈願に来るひとのいることを伝えている。
その造りはとても素朴で、ぼくみたいな彫刻に詳しくない人間からしたらなにかの練習用で造られたか素人が彫ったと疑いたくなるほどの手抜きにさえ感じられる。でもそれが故の妙な味を出しているからか堀じゃなくてもついつい好ましさを誘われる。痛みにずっと耐えているのか、或いは眠りこけそうなのをじっと耐えているのか、そんなどっちつかずの、或いはどっちとも取れるような、まあよく言えば微笑ましく悪く言うなら間の抜けた姿だ。
季節が季節なので、石仏のまわりはたくさんの枯落ち葉でいっぱいだった。
ここはお寺の裏側、それでいて墓地の入り口近くなので、あたりはより一層しんと静まり返っているような雰囲気だった。そんなお墓だらけの中に混じって、この石仏がこうしてただひとり瞑想している。ずっと見ていると、なんだかこの墓地一体を守っている仏様にもおもえてくる。いや、守っているというよりも死者とともに石となりて鎮魂しているようにさえ見えてきた。それはさすがにぼくの錯覚だろうが、そういう色眼鏡で見つめていると、どうにも鎮魂仏のようなものにも感じられてくる。墓地に、それも冬の季節のまだ時々小雨の降っている雲の多い日の墓地であるというのに、そんなことにはまるで無頓着の様子で佇んでいるその姿には身近な親しみや安らぎを覚えた。
こんな静かな場所で、樹木の下で、時間になんて知らんぷりしているみたいに石化した死者たちとともに佇んでる落ち葉の中の石仏、もう70年以上も前に亡くなった堀辰雄がいたことを教えてくれるものがここにもあることに、ぼくは少しの間だけしみじみと感じ入っていた。
little rain(暮れの旅、3)
10年振りの信濃追分との再会は小雨が混じっていた。
その冬(2025)、ふと長野旅行を思い立ったぼくは、手始めに軽井沢にゆき、そこでメインストリートをぶらぶらしながら旧三笠ホテルや聖パウロカトリック教会、夕方には万平ホテル(ぼくは親しみを込めてまんぺーと呼んでいた)でジョン・レノンが好んで注文したというアップルパイを食べるという、まあ実にフツーの観光客らしい軽井沢日和を楽しんだ。
そこから駅に戻って信濃鉄道に乗った。
着いたのは小諸だった。ここで1泊した。
軽井沢もだったけど、小諸でも駅前でイルミネーションが輝いていて綺麗だった。雪が見当たらない代わりというか、クリスマスシーズンらしい光景だった。
そうして翌日、観光前に小諸にある喫茶店で朝食をとった。
夫婦で切り盛りしているらしいそのお店のカウンター席には、その子どもだろう、ひとりお嬢さんが座っていて勉強していた。朝勉というやつか。
ぼくが一番乗りで、あとから女性4人組と1組のカップルとがやってきて、メニュー片手にわいわいやっていた。ぼくは静かにおにぎりとみそ汁のセットをいただいた。みそ汁はコクというのか、甘味があって具沢山だしおいしかった。
先程まで勉強していたお嬢さんは知らないうちにスマホを見ていた。まあ、さっさと済ませたからだとおもうけど、やっぱりお勉強よりティックトックか、と危うく笑ってしまうところだった。
女子4人組の会話からは「江戸三角」なんてことばが聞こえてくる。きっとぼくの聞き間違いに違いないけど、それにしたって江戸三角……おにぎりのことか?
ともかく、そんなまるで旅の軽やかな前奏曲みたいなひとときを印象に残しながら、ぼくは信濃追分に、10年振りの堀辰雄文学記念館に赴くために信濃鉄道に乗り込んだのだった。
信濃追分駅で降り立ったのはぼくひとりだった。
ホーム側の駅舎出入り口付近には「ようこそ美しい村へ」と書かれた看板が吊ってあってここに来た旅人を歓迎している。前回来た時から間が空いてすっかり記憶も溶けてしまっていたこともあり、てっきり駅舎さえない寂れた無人駅とばかり決めつけていたぼくにはそれが驚きでもあり、同時に、そういえばそうだったと記憶がよみがえってもきた。
信濃追分駅舎もまたクリスマス調に彩られていた。
舎内にはクリスマスツリーが飾られていたし、屋根の下には電飾が連なり、外には雪だるまやトナカイなどの、夜ともなれば鮮やかに光るであろう置物があった。この時期はどこにでもクリスマスがやってくるものだ。
それから、これは通年置いてあるであろう、兵隊の人形を大きくしたような模型が駅舎入り口の両脇に立っていて、この高原の無人の駅舎と相まってメルヘンでありながらどこかメランコリックな雰囲気を漂わせていた。まあ確かに、ぼくにとってはこの駅が旅という物語の始まりみたいなものだから、こうして駅に着いた時から物語を感じられるのは微笑ましかった。
ぼくはしばらくこの駅舎の外と中を行ったり来たりしながら、この美しい村に再びやってきたことの感慨に耽っていた。1日限定の旅人ではあるけど、それがために、なるたけこの村の空気感というものを味わっておきたい、そんな願望があった。だからすぐに出立するのはもったいない気がしてうろうろしていた。我ながら呆れたものだ。
そんなぼくに苦笑を漏らすかのように、ようやく時間も時間だしと目的地に向かおうとした頃には空から小雨がこらえきれずとばかりに降り出していた。もっとも、それは小雨よりもまだ小さくて降っているのを疑うくらいの雨だった。
「……little rain……」とふいにぼくは口に出していた。堀辰雄の作品の中に、そんな英単語をつぶやく外国人が出てくるものがある。それを無意識に思い出したのだろう。
タクシー乗り場には1台の車が停まっている。行先はここから歩いて30分ほどかかるしどうせなら、と利用もかんがえた。でも、自分の足で歩いてこそなにか物語が見えてくるのかもしれないと、まあ半分はタクシー代をケチりたいのがあったけど、この小雨も10年振りの再会を印象づけるなにか物語的な情緒があるとおもいなおして、ぼくは歩き出した。すっかり自分の中で物語的な異化をされたその英単語を時々唱えながら。……
昇進橋という縁起のいい橋を渡ってしばらくゆけば、そこに旅の目的地、堀辰雄文学記念館が門を開けていた。
開館から40分ほどが経っていたけど、どうやらぼくが一番乗りだったらしく受付の方が慌てて締め切っていた受付窓を開けてくれた。
入場券を購入する際、受付の方が館内の巡り方を丁寧に説明してくれた。それから案内図も渡してくれた。
受付の横には、大きな木の板に「堀辰雄文学記念館」と書かれた看板があり、その下にはクリスマスリースが飾られていて、寒い中やってきたこんな旅人をもてなしてくれているようだった。
ぼくは案内にすなおにしたがって白い建物から見学にいった。
そこは堀の奥さん、多恵夫人が生前夏を過ごした建物だそうで、今では改築し資料館となっていた。
館内は当然ぼくひとりなのでとても静かだった。
堀の幼年時代から晩年までの私物や複製原稿、出版された本、それらが息を潜めるようにして展示されていて、ぼくは館内のストーブで足を温めながらそれらを順繰りに眺めていった。なんだか、昨日入った聖パウロカトリック教会の静けさをおもいおこさせた。そうしてこのふたつの静寂がぼくのなかで結びついていた。ともすれば、ぼくは展示品などうちゃって、ただこの静けさこそが堀文学の魅力であるように感じ出していた。この美術館よりも静けさに満ちた館内にいられることはとても心地が良かった。
館内には2階もあり、そちらには堀の知人友人たちの手紙の複製などがあった。
立原道造の手紙、野村英夫のハガキ、神西清の手紙……、堀辰雄の作品を読み始めて間もないまだその周辺のひとびとにまで興味が向いていない頃にここに来たときは、そんなものがあるなんて気にも気づきもしなかった。もしかしたらぼくは、2階があるなんてことにも気づいていなかったかもしれない。当時はただぶらぶら見学して、やっぱり文学者の展示物は画家やアニメの企画よりも見栄えがないから全然パッとしないなあなんて生意気なことばかりかんがえては、さっさと記念館を出てあとは信濃追分の空気をテキトーに感じていたとおもう。
だから今は、そういう存在たちに気づいている上で見学できていることが嬉しかった。特に立原のなんとも言えない味わいのある筆跡を、それも堀の結婚のお祝いで書いた手紙で見られることはありがたいくらいだった。
それに今回は堀ばかりではなく多恵夫人の過ごした、同時に愛した場所として信濃追分に、この記念館に行きたい気持も含んでいた。むしろこの場所は堀辰雄よりも長く多恵夫人の方が暮らしていたわけだから、夫人の面影の方がより色濃く残っているのかもしれない。今ではここに多恵夫人がいたことをしみじみと感じながら巡れそうな気がすることが、この10年の、ぼくの成長であるかもしれなかった。
一通り資料館を見回ったのち、ぼくは外の空気を吸いに出た。
外は相変わらず小雨が降っていた。
そんな寒空の下で、先ほど受付をしてくれた係の人が庭を整備している。その黙々と作業をこなす姿にぼくはなんだかすなおに感謝したい気になっていた。
ここには生前堀夫妻が住んでいた建物が残っており、それに相対するように1脚のベンチが向かい合っている。本来なら座りたかったけども、小さな雨によって濡れているのでそれは断念した。けれどもそんな、主がいなくなった家を無言の椅子がじっと見守っているかのような様子は、この小雨の雰囲気の中でなんだかとても微笑ましいものに見えた。
庭には他に堀の愛した馬酔木の木であったり、多恵夫人が想いを馳せて植えた朴の木、さらには夫人と親しくなった近所の方が植えたドイツトウヒなどが案内板と共に植えられていた。このうち馬酔木の木は令和3年4月に浄瑠璃寺から寄贈されたものらしい。
前回来たときになければ、夫人が亡くなってからでも10年以上は経っていることになる。さらに言うなら、堀辰雄が浄瑠璃寺を含めた大和路を散策したのなんてもう80年近くも前のことになるのに、こうして縁が繋がり、この信濃路の片隅に大和路も交差しているそんな姿が、ぼくなんかにはしみじみしてしまう光景であり、しばらく小雨も忘れて眺め入っていた。
前回は夏、今回は冬にお邪魔した。あと春と秋にやってくれば全ての四季に来たことになる。グランドスラムというわけだ。
ただ前回から今回までに10年もの歳月がかかってしまった。このまま行くと次来るときも10年後で、そうしてようやく全ての四季にうかがう頃にはそのまた10年後、50代半ばに差し掛かっている計算となる。
堀よりも歳をとった後に、よくやっとこの土地の四季を実感できるのか、と自分に呆れながら、ぼくは庭をぐるり周り、現在は『「美しい村」の幻像《──イマアジュ──》』という企画展をしている管理棟へ、野田書房版の『美しい村』に隠れているあの押し花のように綺麗な色をした薔薇を見るために向かった。
沈黙のうちに・・ ──Find peace in silence──(暮れの旅、2)
異国の地で一夏を送る外国人のために異国の建築家が建てた聖パウロカトリック教会は、堀辰雄が訪れた頃は避暑地としてはすでに定着していた軽井沢の風土の中でもまだ真新しく珍しい、それこそ日本人には馴染みの薄い異国の宗教徒の祈りの場として近寄りがたい感じが漂っていたかもしれないものの、およそ90年の時を経た現在では、すっかり高原のリゾート地のシンボルとして扱われ、むしろ古くて静かな日本の美の一端を今日において体現しているようにさえぼくにはおもわれた。……
そんな教会へと赴く前、約10年振りの軽井沢に浮かれながらフーガの径を歩いたぼくは、これまた10年振りの、その年(2025)の夏頃にようやっと3年振りくらいで改修工事を終えて再開された旧三笠ホテルにゆくために三笠通りを歩いていた。
車は時々通るものの、こんな長い一本道を凍てつく冬に歩く物好きはぼくくらいなものだった。だからと言ってここにくる前に悲しいことがあってまるでシューベルトの『冬の旅』のような傷心した状態で歩いては立ち止まりを繰り返していたわではなく、さらにはそんな歌曲を体現するべくわざわざ高原の一本道を旅してみたくなったのでもなく、むしろ久々の、それも改築された旧三笠ホテルにゆくならゆっくりとそれが近づいてくる喜びを感じてみたいがために自分の足で歩きたいという能天気な感じて歩いていた。
けれどもこの寒さは予想以上で、近くを流れる川でさえその表面は凍っていた。
それだけの寒さの中であったので、目的地に着き、クリスマスツリーなどで彩られた館内に入ったときにはその暖かさが実に身に染みて感じられた。ちょうど雲ばかりの空だったのに青空が全面的に見え、視覚的にも暖かさを取り戻し出していたことも作用していたようだった。なにより、再会の嬉しさが体感以上に気持ちを暖かくしてくれた。
軽井沢のメインストリートからすっかり外れた場所に建っているこの旧三笠ホテルは、そういった立地だからか、或いはまた、今ではホテルとしての役目を終えているからなのか、とても閑静な空間を漂わせているように感じられた。
創建当時、ホテルとして、動的で実用的な存在として避暑地の観光客を迎え入れていたこの建物は、100年の時を経て、今では静的なそれこそこの建物自体が一種の博物館として佇んでいるように見えた。実際、旧三笠ホテルは重要文化財として指定されており、数々の展示品がこのホテルの在りし日の面影を伝えている。白を基調とした優雅でありながら気品のある外観が特徴的で、中に入れば、白い枠をはめ込んだ大きな窓から光が差し込み、館内の静物たちを一層密やかに和ませている。女の子の前髪のように、黄色いカーテンが窓の両端下で留められていて窓を可愛げに彩っている。光はカーテンも透かして細やかな模様を浮かび上がらせていた。
そんな調度品たちと、静けさと、窓からの光とが、まるで息を合わせているかのように調和した空間から安らぎを感じながら、ぼくは当初の予定通りこのホテルでお昼をいただいた。
窓辺付近の席から眺める青空の中の雪は眩しく、それでいて美しく、そういった快い気分の中で温かな当館限定のビーフカレーを頬張れることに、ぼくの胃袋ばかりでなしに胸の内は自然と喜びでいっぱいになっていった。まさかこのホテルで食事ができることなど、10年前の、内装を見学するだけで満足だった前回の自分ではできなかった新しい楽しみを今回は味わうことができた。
一緒に頼んだりんご入りハーブティーの香りに和んだり、お冷を入れたグラスを透かして光がメニュー表に映り込んでいるその淡い陰影になにか小品的な芸術作品を見ているような喜びを受けたりしながら、ぼくは旅のひとときをしばしの休息に当て、それから静けさに浸っている館内を巡ったあとまたあの長い一本道の三笠通りを、まるで寒さと対話でもするかのようにじっくりと歩きながら軽井沢のメインストリートへと戻っていき、あの特徴的な三角の屋根をもった聖パウロカトリック教会の前へとようやくたどり着いた。偶然にも、まるで到着を祝福してくれているかのようにちょうど教会内からパイプオルガンの演奏が聞こえ出していた。……
堀辰雄の生きていた頃の、まだできて日の浅いこの教会の建っている雰囲気がどのようなものであったのかは想像するしかないものの、現在目の前にあるその様子は、すっかり周囲の空間に溶け込み景観の一部となっていて、言ってみれば閑静な住宅街にさりげなく建っている教会としてなんらの不自然さもましてや独特感もなく佇んでいるように眺められた。堀はこの建物を、どこかスイスの寒村にでもありそうななんとも言えずいい感じのするものとして表現していたけれども、なるほど確かに、寒村にこそよく似合いそうな雰囲気を感じる。もっともぼくとしては、それは遠い国の村ではなく、むしろ日本の農村のあちこちにでもありそうな教会として見てしまっていた。それはこの建物が持つ鋭い傾斜の屋根が、ぼくなんかにはどこか白川郷の合掌造りの家を連想させるからかもしれない。雪の降り積もることを想定しているかのような、或いは様式美としてよりもそんな機能美としてあの屋根の形にしたのだろうかと曲解してしまうと、ついつい、この教会に雪が目一杯降り積もっているところを想像してしまうのだった。
それまでにも二度ほど、ぼくはこの教会の前に来ては外観をしげしげとまるでさも建築に明るい風を装って見学したことがあった。
けれどもいざ中に入ろうとおもうとどうしてもためらいが生じて結果今まで入れず仕舞いだった。ガイドブックでも出入り可能と記載があり、実際にぼく以外の観光客が興味深げに入ってゆくのを何度となく横目に見てはいたものの、ここが宗教的な建物であること、しかもその宗教に対して自分はなんらの信者でもないこと、そんな部外者がただ単なる観光目的のために入るのは酷く場違いな、どこか罰当たりな行いのようにおもえて二の足を踏んでしまうのがその理由だった。それに勝手な想像で、中に入ると信者の方が待ってましたとばかりに勧誘してくるんじゃないかという怖さと疑いも抱いていた。宗教事にわずらわしさのイメージがどうしてもつきまとってしまうぼくとしては、建物そのものに魅力を感じはしても、それ以外の──それは全部自分の邪推でしかないのだけれど──余計な心配が邪魔をして、すぐ目の前にまで来ているのに引き返してばかりだった。
今回もまた、入り口に来ておきながら扉を開けることに躊躇してしまい、パイプオルガンの音色を聴きつつ外回りをぐるり一周して時間をかせぎながら、決心がつかずに弱気になっている自分の気持ちをなんとか落ち着かせようと試みるものの一向に効果の表れる様子がなかった。
沈黙のうちに・・
そんな戒めのことばが、英語訳とともに分厚く切り出された木の板に書いてあるのを扉の前に置かれてしまうと、口に出してはいないものの、胸の内では未だざわつくままの気持を抱いた自分にはやはり入るべきではないように警告を受けている気にもなってくる。こういった素朴さを建築に活かしている教会であればこそ、観光のためよりはやはり地元で慎ましく信仰に勤しむ者たちのために使用されるべきなのだろうと、一介の旅人はいよいよ怖じ気づいてくるのだった。
そんな心情であるのにも関わらず、ある程度ひとが中から出てきた頃に、まるでそれを見計らったようにふと何気なく体が動いたことはなんだかそうやって行動を起こした自分にも不思議だった。意を決して、と表現するにはなんだかしっくりこないほど、むしろ一種の気の迷いみたいにぼくは十字の形のステンドグラスが施された扉の取手を引きすっと入っていった。それは到着したとき偶然にもパイプオルガンの調べが始まったように偶然にもその演奏が終わった頃だった。まるで自分がさも偶然を装って、つまりたとえ自分が本来招かれざる者であったにせよ自分の意思とは関係なしに間違えて入ってしまったのだと後で言い訳ができるように、そんな意気地のないやり方で教会の中へと足を踏み入れた。こんな風にしてぼくは初めて外観を眺めるばかりではなく聖パウロカトリック教会の中に入っていった。
建物の周りも静かだったけれども、中はそれ以上に静かであった。
全体として外観の見た目以上にこぢんまりとした空間で、まさに寒村でひっそりと信者の集いの場となっている小さな教会のような印象をうけた。それでもクロスした梁に支えられた天井はその空間が広くとられていて圧迫される感じは少しもない。そうして音という音がその天井に、まるで小さな雪の結晶が人肌に触れた途端に溶けてゆくのと同じように溶けてゆきそうにおもえた。そればかりか、なるべく音さえ立てたくないほど、音が煩わしいと感じられるほどの静けさだった。でもそれは決して緊張を強いられる静寂ではなく、じんわりと包み込んでくれるような穏やかな静けさであった。
真向かいには祭壇があり、クリッペと言っただろうか、素朴な人形がちょうど聖夜にキリストが生まれた場面を再現しており、祭壇への通路を挟んで両脇に長椅子が並べられてある。くるりと後ろを振り返れば、ロフトのような楽廊が造られてあって、そこには先ほどまで音色を響かせていたパイプオルガンが設置されていた。その楽廊へと至る階段はこれまたこぢんまりとした簡素な、けれどもいろいろとトランプのマークみたいな模様が彫られた螺旋階段で、ぼくが入って間もなく、奏者の方であろうひとがゆっくりと降りてきて出ていった。そうして気づけば自分ひとりだけが今ここに突っ立って、この静寂の中の空気を呼吸しているのだった。それは意外なことではありながら、同時に、自分勝手と知りながらも願ったりな状況であった。
ぼくは一番後ろの、ほかの長椅子よりは半分ほど短い椅子に座りながら、自分でもおもってもみなかったほど快いこの静けさをただただ感じていた。こんなに静寂を愛する存在として感じられたことが、果たして今までにどれほどあったのだろうか──、すぐには念頭に登ってこないほど、この教会内での静けさは親しみと愛おしさをともなっていた。内部の、構造が剥き出しとなった高い天井の造りが、ぼくにはどこか日本の田舎の寒村によくある古民家の、土間の上なんかによくあるすっかり黒くなった天井を想起させて、その懐かしさにも似た感情がぼくにこの木の教会が秘めている沈黙を喜ぶべきものとして感受させているのかもしれない。……そんなことをかんがえている間にも時は経過してゆくけれども、流れることを常とする時間でさえ、ここでは透明なひとつの固体となってこの冷たい空間の中に静止しているようにおもえてくるのだった。こんなに静寂が心地いいと、自分の思考やもっと言えば感情でさえ雑音に感じられてくる。そうして恐れ多くも、例えば『アヴェ・マリア』だとか『主よ、人の望みの喜びよ』などの美しい旋律をもった教会で流れることでより映えるであろう音楽であっても、このひとときの中においては全休止してもらいたいほどにおもえてくる。どうしてこれほどまでにもこの静けさが心地よいのだろう──、およそ90年もの間この教会が湛えている静寂に沈黙を持ってたたずんでいることは、そんな感動と驚きとを抱くほどに味わい深いものがあった。ぼくはここに来てなんだか初めて「静謐」ということばが持っているニュアンスや深みを理解、体験できた気がして、それが余計に自分をおもってもみなかったほどに喜ばせているのかもしれない。信者の方にとって、教会というものはパイプオルガンや声楽などの音楽、さらにはステンドグラスや彫刻などによって彩られている方がよっぽどそれらしく美しいものであるかもしれない。けれどもぼくにとってはこの静謐こそが美しく、祈りそのものに感じられてくる。それは別にどの音楽も色彩もこの静謐の前では役に立たないと言いたいわけではない。ただ今だけは、あらゆる息遣いのする者、さらには自分の存在さえも取っ払って、純粋にこの教会全体を潤している静けさを感じてみたい望みがぼくの胸の内には沸き起こっていた。こんなわがままな、信仰者ではない者にまで広く開かれているこの教会の穏やかさに感謝をこめながら。……
当然この教会は何度か修繕、改築されているだろうから、もはや建設当時そのままの部材はいくらもないかもしれないし、補修のたびに姿形も若干変わって現在の建物は当時を面影としてのみ残しているだけかもしれなかった。歴史ある建物に厳格な基準を持ち込みたいひとにとってそれは価値の目減りであっても、それでもぼくは、いやそんな当時をイマージュとしてのみ残しているからこそそこに古代的なにおいも漂っているみたいに感じてしまうのだった。古代的な、親しみと懐かしさとが織り混ざったどこかメランコリックなにおい──、異国の大陸から渡来してきた仏教及びそれに起因する寺院が時の流れを経て日本に馴染みある建物になったように、90年の時を経てこの聖パウロカトリック教会もまた、そんな日本文化の古代的なにおいをこの高原の閑寂な村で滴らせている。90年という歳月はまだまだ古代的とは呼べないわけだが、この素朴な教会のまるで半分夢の中のような沈黙に触れている時、ぼくにはどこか、例えば法隆寺境内に建っている夢殿の空想的雰囲気のような香りが漂っているように感じられてしまう。なにも日本生まれの日本育ちだけが二重丸の日本文化を担う必要はなくて、外国人が見出したこの姿も日本文化のひとつの表れであった。造ったひとが外国人なら、造られた目的も、建築方法も、全てが異国由来のものであるけれども、もうこんなにも日本人に愛されてしまった聖パウロカトリック教会はすっかり日本の香りに包まれていた。
梁の一本一本も、簡単な模様が描かれた四角い磨りガラスから差し込んでくるどこか薄く柔らかい光も、ここにあるあらゆるものが沈黙の結晶化であるようにおもわれてくる。建築家、アントニン・レーモンドはそんなことも考慮しながら沈黙を建築化しようと試みたのだろうか。0という数字が、あらゆる数を調整調和してゆくように、ここでは静寂がここにあるあらゆるものの消失点として均整を保っている。旧三笠ホテルでもそうであったように、光が、そうしてそれによって出来上がる影がこれほどまでに静けさの中に溶け込み調和しているのが美しい。それはもう平和の象徴と称してもいいほどだった。そうしてそんな平和な沈黙の中で日々ひとびとの祈りがささやかに捧げられてゆく。創建当時からの、この教会の変わらぬ祈りの姿──Find peace in silence──祈りは沈黙に。……
これから万平ホテルへと足を運んで、ジョン・レノンが愛したアップルパイをロイヤルミルクティーとともにいただきながら実に軽井沢日和らしい優雅なひとときでも送ろうと小粋な予定を立てていたけれど、ぼくはこれまでの軽井沢旅行で怖じ気づいてここに入れなかった分を取り戻すように、教会の90年の歴史から小1時間ばかりを拝借してその静謐に、まるでそれを自分のものにでもできないかと乞い願うみたいにひたすら浸っていた。どんなに賑やかなメインストリートよりも、ショッピングプラザよりも、この素朴な木の教会の静謐こそがなんだかぼくにとっては一番の軽井沢らしさだった。
フーガの径(暮れの旅、1)
その年(2025)の冬、ふとしたことをきっかけにぼくは2泊3日の予定で長野県に旅に出かけた。
東京を離れて実家暮らしに戻って以来、泊まりがけで行くところといったらすっかり懐かしい街となった東京ばかりで、その大都会への未練がましさが今日までぼくを長野県からすっかり引き離していた。今度の旅を皮切りに、また長野への旅を再開したい──そんなちょっとした願いもあった。
旅先の候補をあれこれ絞ったものの、結局は行ったことのある軽井沢に決めた。手始めに手堅く知っている場所を選んだわけだ。再会のご挨拶、という意味も含めていた。
しばらく振りで降り立った軽井沢はおもっていたより雪はなくて、ただ遠くに見えるスキー場だけが真っ白に染まっていた。
景色としては冬らしさがないけれども、天気があまりよくないせいもあるのか気温は実に冬本番らしい凍てつく寒さだった。日本海側ほどではないものの東北の雪国で暮らしている自分でも、この寒さ、むしろ冷たさは堪えるものがある。これが高原特有の冬の厳しさのか、とそんなことをかんがえながら、ぼくはちょうどウィンターフェスティバル中の、あちこちクリスマス調に飾られた町並みを見ながらとにもかくにも久し振りとなる軽井沢本通りをぶらぶら歩いた。凍てついた空気の中で響く靴音がこれまた凍てついた感をともなってきて一段と寒さをましてくるようだった。けれども、本通りから伸びる脇道を首を伸ばして見るたびごとに昔もこうやって歩いていたものだと苦笑に似た喜びが込み上げてくる。喜び──時を経て、ようやっとまたここにくることができた喜び、今ここにいる喜び、そんな感情で、ぼくは胸の内をできるだけいっぱいにしながら軽井沢を歩いた。そうすることでこの寒さも再開のひとつの印みたいに肯定的に捉えることができた。
始めぼくは堀辰雄の径と名付けられた径を目指した。
10年前、宮崎駿監督の『風立ちぬ』をきっかけとして訪れた頃は、この町の雰囲気ばかりを呼吸しては旅人気分に浸って満足していただけであり、その当時は堀辰雄の作品もようやくその映画の元にもなった同名タイトルの小説を読んでいるくらいで堀自身も他の作品も全然よく知らなかった気がする。
なので彼の作品を一通り読んだ今度の旅では、堀がたびたび作品の舞台としたこの町を見ることで、よく歩いたと言われるその小径を自分自身が歩くことで、それによって彼の生を幾分かは実感を伴ったものとして感じてみようという試みがあった。そうしてそんな風におもいながら歩くことで、懐かしくなってしまったこの軽井沢が再び自分にとって血の通った、ちゃんと今目の前に実態としてある町に鮮やかによみがってくることにも期待していた。いわばただの旅ではなく、自分が実在の町にいる実感を、同時に物語そのものを味わっているかのように感じて見たかった。
そんなだから、軽井沢本通りにある八十二銀行前のベンチに毛糸の帽子が置いてあるのが目に留まったとき、こんな寒い日にいったいどこの慌てん坊が忘れていったのか(まさかとある歌に出てくるサンタじゃあるまいし)或いは忘れたふりをしておいていったのだろうか、とその帽子が置かれたいきさつをつい詮索してみたり、それからまた、本通りを外れて万平ホテルへと続く道を歩いていた際、或る建物の庭先を掃除していたおじさんに挨拶をされ、それが心地よくてこちらも挨拶をしてすれ違ったちょとしたことなど、そういった心に残るいちいちの出来事にふれるたびに、それが今回の旅をより旅らしく色づけする小道具というのか物語の香りのように感じられてくるのだった。
そんな、自分が物語の主人公として今を過ごしているという酔いしれた気分に浸っているうちに、気づけば堀辰雄の径へと辿り着いていた。
それは特段小綺麗に整備された径ではなく、ましてや堀が生きていた頃の軽井沢の姿をそのままとどめているわけでもない、軽井沢に無数にある別荘を区画するかのように引かれている道路のひとつに過ぎないほどの変哲もない径であった。径の始まる入り口近くの片隅に小さく日本語とローマ字とで書かれた標が建っていなければ、だれもそこが作家の名前がついている径だなんておもいもせずに通り過ぎてしまうことだろう。
もちろんぼくも、ことさらになにか実に軽井沢の径たり得たものを期待していたわけではく、むしろこんななんでもない一本道こそどこか堀辰雄の名前を冠した道らしいと感じられた。いや、もしかしたら堀のいた当時はひと目を惹くくらいななにかおしゃれな道であったのかもしれない。そうしてそれが時代を下るごとに、軽井沢がぼくみたいな庶民でさえ気楽に出掛けられる避暑地になるにしたがって本通りの方がより活性化され、相対的にこのあたりの景観は手をかけられることもなく、かといって歴史を感じさせるような趣を醸し出すこともなく陰っていったのだろうか。
ともかくも、径は歩くためにあるものだ、というわけでその小径を歩いた。
ここから見える、というか軽井沢に来てからの別荘は、当たり前だけれどもどこも硬く門を閉ざしていた。家々の隙間を埋めるように立っている木々からの落ち葉も、誰かに踏まれることもなく静まり返っている。ただ遠くの方から、なにか作業をする鈍い機械の音が響いている。夏の間だけを主の憩いの場とする別荘たちは、生き物たちよりも静かに冬眠期に入っているらしかった。
堀辰雄の径も、とうの昔に整備することを諦めたかのようにアスファルトはでこぼこしているし、縁石の丸石も所々崩れ落ちていた。おまけに古びたフェンスをへし折って木が倒れており、間に合わせ程度にカラーコーンで注意を促している。すぐに木を撤去する様子は見られない。これといって物語の香りもヘチマもない、実に現実的な、現在的な、修繕を後回しにされる優先順位の低い小径であることを感じながらぼくは歩いた。なんでもない一本道どころか、むしろ避暑地のイメージ低下につながるとして厄介者扱いされていないか心配になってきてしまった。
むしろこのまま何事もなかったかのようにしれっと、さっき径の始まりに立っていた標を抜き取って地図上からも堀辰雄の径の名称なんか消し去ってしまった方が、軽井沢にとっても、その名前を使われている堀本人にも却って都合がいいんじゃないだろうか──、ケチをつける、というと語弊があるものの、どうせ整備する気がないのならわざわざ作家のネームバリューなど必要ない気がした。言ってしまえば、今さら昭和のいち作家の存在なぞこの避暑地に来るひとの一体何人にとって旅の目的地を選ぶ理由になるだろう。そんなお節介さえぼくはかんがえだしてしまっていた。
もしかしたら軽井沢の観光協会もすっかりこんな径が残っていることも忘れていて結果的にそのまま野放図になっているのかもしれない。それとも、この時代にあらがうことなくあるがままに廃れてゆく様こそが『曠野』や『姨捨』を書いた堀辰雄の径の、径らしい味わい方なのだろうか。廃墟に美しさを感じることがあるように、このみすぼらしさこそが或る種の観光資源であったっておかしくはない。兵どもがその力を誇示したままよりも夢の跡と消えている方が、なるほど文学的には鑑賞に耐えうるようにおもわれる……。
と、そんな余計なことまでかんがえ始めていたぼくの目の前を、なにかが横切っていった気配がしてふと足を止めた。
それは1匹のリスで、ぼくのことなどお構いなく、いやむしろぼくがいたからだろう、すばしっこく飛び跳ねながら瞬く間に物陰に遁走していった。まるでこの見栄えのない単調な小径にひとつのアクセントを加えるように。
お前のそのなんでもない動きがぼくをなぐさめてくれたよ……、不思議なもので、そんなちょっとした出会いだけでぼくは途端にこの径が一気に物語的な香りに満ちているように感じられて嬉しくなるのだった。それから、さっきまで頭の中に浮かび上がってくるこねくり回したことばたちを一旦脇に置いて、この短い小径のような単純な物語のひとつでも書けはしないかとやおら思考を文学に持ってゆくことができた。
そういえば、さっきからここを堀辰雄の径といっているけれども、ここは別名フーガの径でもあった。
フーガ、なんてものは、遁走曲と訳される音楽的な技法のひとつ、くらいしかおもいつかいぼくにとってこの径を音楽的に鑑賞することは知識も技術も皆無だった。
その仕事は音楽家に任せて、ぼくはなるたけこの径を文学的に味わおうと、改めて今この小径を歩いていることに実感を持つことを試み始めた。
そうか、今おれは堀の歩いていた径を、その堀を追いかけるように歩いているのか……、それはつまり堀辰雄をひとつの主題として、ぼくが模範しながら旅をしているようなものであった。堀辰雄とぼく、時間差をおきながらこの一本の径に二声のフーガが進行している。しかしまあなんと時間差のある遁走であることか。堀が亡くなってから70年も経った後にようやく昭和の文学なんぞをかじり出したぼくが、その逃げてゆくものを追っかけているのだ。こんな70年という幅を楽譜上に起こすことは難しいに違いない。
もっとも、フーガとは普通四声、少なくとも三声でないと追走している音の判断ができないらしい(?)から二声のフーガは理論上の話になってくる。
となると、ここでは軽井沢というものが主題として展開されているのであって、まずは堀の奏でる対主題があり、それを受けて今、ぼくが自由に形を変えながらぼくなりの対主題を奏でていることになる。こうやって音楽を(といっても文学的に強引に解釈しながら)持ち出せば旅もまた音楽となる。ぼくの一歩一歩が音符となり、どちらも軽井沢を模範しながらも堀辰雄の足跡とは異なる旋律を展開してゆく。
それにここにはもうひとつの声がある。10年前に旅した自分だ。
その当時はまだこんな道があることすら知らなかった記憶の中にいる自分の旅の跡も、ぼくは知らず知らず思い出しながら、追いかけながら歩いている。軽井沢、堀辰雄、ぼくの記憶と今のぼく、これをもって四声のフーガとすれば或いはちっとはドレミファの効いた音楽にでもなるのじゃないか……、そんな風に、小径に入る前はただ一本径を歩くことしかかんがえていなかった自分から自由に思考を変えながら、ぼくはこの静まりきった暮れの軽井沢を歩いていた。いつの間にか雲に覆われた空から、ようやっと猫の額ほどに青空も見え出していた。
父親の代わり
我が家では猫を1匹飼っている。
基本的にはぼくの父が世話をしている。トイレの砂を変えるのも、餌を与えるのも父なので、猫は自然と及川家の中で一番父親に懐くようになった。父が座っていると、よく父の膝にのぼってきてそこで寝ている。
母も時々餌を与える。というか、茶の間で煎餅の袋なんかを開けると猫が勝手に寄ってきて匂いを嗅ぐものだから、母が鬱陶しがってひと欠け、ふた欠け、猫に与える。そのうち母の近くでも寝るようになった。
そんなふたりが所用で5日ほども家を空けることになったので、その間だけぼくが面倒を見ることになった。もっとも、面倒を見るといてもただ餌を与えるくらいなものだ。
この猫、ぼくに対しては実に猫らしいというのか、避けるわけでもないものの擦り寄ってくるわけでもない。なんというか、部屋に置いてある家具の一種みたいな感じでこれといって反応を示すことがない。いや、こちらがなでようとすると嫌そうに体を伸ばしてかがみ込むところを見るに、あんまりよくは思われていないのかもしれない。まあ、餌を与えない人間への態度なんてその程度が普通だろう。
そんな猫も、5日も慣れ親しんだぼくの両親がいないものだから、餌が欲しくなると流石にぼくに鳴き声で知らせてきた。餌が恋しくなれば、親しみを覚えない奴にも寄ってくるところがまた猫らしい。
ぼくは最初のうち大容量の餌を与えた。猫も普通に食べていたけど、しばらくすると物足りなさそうにまたぼくに寄ってくる。父がたまに与えているよりグレードの高い餌が欲しいのだ。親父が買ったものを勝手にあげるのもなあ、と思いつつ、猫の物欲しげな声にやられて与えてしまった。やっぱり食いつきが違かった。
食べた後は満足げに毛繕いをしている。まるでぼくのことなどすっかり忘れたように。
餌を少しばかり与えたところでこの関係性は変わらないだろうし、父が帰って来ればぼくから餌をあげることもないだろう。父親の代わり、慣れていないだけにそれはやっぱりなれるものじゃないらしい。