STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

黄色い糸

 母が知人から大量の服をもらった際、そこに一着の黄色いエプロンが入っていて、せっかくだから、とそれを譲り受けたことがあった。
 それ以来、食器を洗うときはそのエプロンに袖を通していた。
 不思議なもので、ただの私服で洗うよりもエプロン一枚着るだけでちゃんと洗おうという気分になるものだ。大袈裟に言うなら、ユニフォーム、もしくは作業着みたいなものか。その場その時で着る服があるように、やっぱりエプロンも家事の時に着るとなんだか意識が変わる。やってる感がある。それに実用面でいっても、私服が泡や跳ね水で汚れない。いいものをもらったものだ、とぼくはエプロンを着るのが習慣になった。
 そのエプロンをいつものように首からかけた際、その首に掛かるヒモの部分が切れてしまった。
 どうやら縫い目の箇所がほつれてしまい、ポロリ、と取れたようだった。
 確かに最近、糸が取れかかっていることは知っていたけど、まあまだ大丈夫だろう、と先送りしていた。それがいよいよ取れてしまったのだ。
 まさかクリップで代用するわけにもいかないので、ほつれた箇所を縫い直すことにした。
 自分でもびっくりだけど、ぼくにはもう15、6年来になるソーイングキットがある。
 ボタンが取れたり、ポケットの底に穴が空いた時、それを使って補修してきていた。買い換えればいいものを、なかなか貧乏くさいことをしてセコセコやりくりしてきたわけだ。
 ソーイングキット自体もガタがきている。貝のように丸い蓋がパカりと開くタイプのものだけれども、支柱の部分がもう折れてしまっているので完全に上蓋が離れてしまう。まあ、こういうのは使えればいいのでそのままにしている。なんというか、そりゃ10年以上も使っているとなんだかんだで愛着が湧いて、針の先が多少曲がっていたり、糸通しが壊れていても気にしなくなるものだ。
 それを使って早速直すことにした。
 そこで最初におもったのが、果たして黄色い糸が入っていたかどうかだった。15、6年も開け閉めしているのに、収まっている糸の色を覚えていないなんて、我ながら情けない。
 基本的には白と黒しか使っていなかったので、他の色なんて記憶になかった。
 黄色いエプロンを縫うのだから、どうせなら黄色がいい。まあ、なきゃないで白でもいいけれども、できれば黄色を使いたかった。
 すっかり棚の上で埃をかぶっていたソーイングキットを開けてみると、果たして、しっかり黄色い糸が入っていた。
 白、黒、灰色、なぜかミントグリーンと、計五色の糸があった。白はよく使っているので大分少なくなっている。反対にミントグリーンは余裕があった。多分今後も使うことはなさそうにおもえる。
 ともかく、ぼくは黄色い糸をある程度引き出した後カットして針に通し、両端を合わせて結んだ。こういう、2本の糸で縫ってゆくやり方にも名称があったはずだけど、すっかり忘れてしまい、今はただそのやり方だけを覚えている。
 器用ではないので、ひと針ひと針、通した糸を引っ張ってからまた縫ってゆく。
 黄色い糸が、黄色い生地と生地とを結えてゆく。
 直す箇所の糸は、最初から通っている糸よりも少し薄い色をしている。まあ、強度は変わらんし、どうせ気にするひともいない。
 ぼくはチマチマと針を通していった。
 最後に、針に糸をグイグイ回して、親指で回した箇所を押さえて、針を引き抜いてハサミで切れば、ひと通りこれで完成した。
 エプロンは、引っ張ってもほつれそうもない。まずまず、首尾よくできただろうか。
 ほつれた箇所を黄色い糸が繋いでいる。ぼくはそこに妙なあたたかさを感じながらソーイングキットをまた仕舞うと、エプロンを食卓の椅子にかけておいた。

春のひととき

 暦の上では春になった。
 といっても、肌感覚ではまだ全然春は遠い。特に東北の山村なぞはこの2月が一番寒いくらいだ。冬至を過ぎてから日の入りは遅くなり、だんだんと明るくはなってきたものの、それでも季節は、新年で気分だけでも和らいだかのような気のする気温からもう一度冬がグッと深まる頃になった。いつだって春の始まりが一番寒い。
 まあ、春が寒いうちから始まるのもどこか乙なものだ。ぼくなんかは、必ずらうららかな陽気の、桜が心地良ささそうに咲いている期間じゃなきゃ春とは呼べない、なんてお堅いことはかんがえておらず、この凍えるように寒い時も含めて春であると、随分のん気に構えている。
 
 家の庭から見える自然はまだどこも冬らしさを漂わせている。色とりどりの花など見当たらず、常緑の植物たちも、まだくすんだ色で心持ちだらんとしている。多くの木々は裸の枝を突き出しているばかりだ。
 けれども、そのじっと暖かくなる時をひたすらに待っているいじらしいほどの姿は、やがてくる季節の予感を多分に含んでどこか瞑想的でもあり、心惹かれるうつくしさがある。春は冬から始まる。植物たちはぼくらよりも知っている。寒い寒いと騒いだところでしようがない。どうせ春は来るのだ。・・・
 
 少しばかり、家の裏山を散歩に出掛けた。
 いつ降ったか忘れた雪は、ぼくの記憶力を体現しているかのようにすっかり消えてなくなっていて、ただ日の当たらない箇所にだけじっと冬眠しているかのように、まるでそうすることでこのまま次に訪れる季節をやり過ごせるとでもいうように、ひと塊りになって残っていた。
 次また雪が降れば、あたり一面冬景色へと逆戻りだ。時に暦通りに、時に人間のかんがえた暦など無視して後戻りして、それを繰り返しているうちに、いつの小間にか、気づいたら春がそばに来ている。今年もそんな感じで春になるのだろう。ぼくはそんなテキトウなことをおもい浮かべながら、地面にちらちらと見え隠れしているオオイヌノフグリに注意を向けつつ家に帰った。
 
 本日は初午の日。
 午年生まれのぼくにとっては、勝手にご縁を感じる日になる。
 なにかウマいものでも食べながら、今日1日を過ごすことにしよう。

見えないものを文学する

 いろいろを本をあさっているうちに、佐々木茂美著『「見えないもの」を科学する』という本に出会った。1998年の4月に発行となっている。もう立派な古本だ。
 そこには、未だ科学的に認められていない、或いは認めにくい「気」についてあれこれ書かれていた。フリーエネルギー(宇宙エネルギー)の説明があったり、地球は巨大な磁石であると書かれていたり、ぼくにとっては興味のある話ばかりでどんどんと読んでいった。
 その中に原子や原子核についての記述もあった。
 物質がその固有の性質を持っているのは分子までで、その分子をさらに細かくしたのが原子になる。
 さらにその原子の構造を見てみると、陽子と中性子からなる原子核があって、その周りを電子が回っている。電子は公転しながら自転もしている。地球みたいなものだ。
 原子の構造を電気的に見ると、陽子はプラス、電子はマイナスであり、そうして、物質の性質はこの電子の動きによって左右されると書かれていた。この辺りが、なぜかぼくの気になった部分だった。
 ここからは、ぼくの文学的な妄想ゲーム。整合性など度外視な連想の数々だ。
「この世のあらゆる現象は電子しだい」と本には書かれていた。
 電子=マイナスとするなら、この世のあらゆる現象はマイナスしだいということにならないだろうか。
 マイナス、ということばは一般的にはネガティブなことを想起させる。生きてゆく上ではあまり好ましくない、なるたけ避けたいものであると言っていい。
 気の持ちようであったり、成功のためにはプラスにかんがえることばかりが強調されているけれども、でも実はその影にあるマイナスこそが重要である、という捉え方はなんだか面白味があり、気が楽になるものでもあった。多分それは、あんまりプラスにばかり偏っていても気疲れを起こした経験が重なっているからかもしれない。
 そう言えば、物事に変化を及ぼすことを「影響」と書く。「実響」ではなく「影響」つまり影=マイナスこそが現象を変化させているということが漢字にも見て取れる。
 このマイナスを単に引き算と捉えるなら、なにを積み重ねてゆくのかと同時になにをどう減らしてゆくのかも大事になってくる。まるで物が溜まりに溜まった身動きの取れない部屋を断捨離してゆくように。深呼吸もまずは吐いてから、と聞いたことがある。人生は案外引き算勝負なのかもしれない。
 そんなかんがえを働かせたら、マイナス=虚数、という変換がふと頭に浮かんできた。
 サイモン・シンというひとが書いた『フェルマーの最終定理』の中で、ぼくは初めて虚数を知った(いや、もしかしたら学校で習っていたかもしれないけれども、そんなもの覚えてなどいない)。虚数とは意図的人為的に作られた数である、と説明されていたのを多分ぼくの勝手な解釈で記憶している。
 確か、どうしても解けないある数学の難問に対して自乗するとマイナスになる虚数を用いると綺麗に解けた、という文章があって、当時のぼくは「なんてこじつけがましい解き方だ」となぜか憤慨していた。自然天然の数の世界に人工物を持ち込むなんて、それが許されるならなんだってありじゃなイカ。と、半分はよく理解できていない自分の言い訳として好印象は抱いてなかった。
 ただ、その人工的な虚数がもしも宇宙的な法則ないしはエネルギーの一部であったとしたら、これは面白いんじゃないかとかんがえてからは逆に魅力的な数になった。人間が微力ながらに観測することのできるダークマターの派生系かもしれない、とおもうとまた一歩宇宙が身近なものに感じられる。宇宙はマイナス性によって変化している。「引力」も引く力のことだ。宇宙も計算する。
 確かに虚数はひとの意識が作り出した。でもそれは宇宙エネルギーの、少なくとも一端を人間が発見したことでもあり、さらには人間の意識、精神というのは本来が宇宙エネルギーそのものなのじゃないか。人間の精神=虚数が現象=数式を動かすと言うなら、それこそまさに「思考は実現化する」ことにつながってくる。
 以下はぼくのざっくりメモだ。
 
 意識=宇宙エネルギー
 僕らの個性は分子レベルから始まる 原始レベルに個性はない
 個性とは配列 既存の有と有との複合体 個性(私)とは複素数 個性には虚数を交える
 自然=プラス 人工=マイナス
 マイナスこそがエネルギー
 自然数=平面 実数=立体 有理数無理数=4次元 以上は物質的な数学 
 虚数=5次元 エネルギーとしての数学 
 引き算(減少)によって現象を動かし、引き算によって願望を引き寄せる
 宇宙は影でできている 何者かの影 
 虚数アポトーシス 何かを生成するための必要な引き算
 
 こんな感じで、ぼくは書籍そっちのけで好き勝手ことばを繋ぎ合わせていた。
 

レシート1枚分の文学

 何かの拍子に、うちのオカンが一枚のレシートを見つけてきた。
 どこかの引き出しからだったか、普段使っていなかったカバンの中からだったか忘れたけれども、とにかくオカンが、変なレシートが出てきた、と騒いでいた。
 どうせ大したものじゃないだろ、と白けながら覗いてみると、それはぼくがまだ東京にいた頃、旅先で買い物をしたレシートだった。すなおに驚いた。
 一体今の今までどこでどうやって隠れていたのだろう、それがどうして今出てきたのだろう・・・そんな風に戸惑いながら、ぼくはレシートをまじまじと見た。
 真ん中から内側へ折りたたまれていたからか、印字ははっきり残っていた。
 場所は広島県だった。
 日付は2016年11月5日。おみやげ街道福山店でお菓子を買っている。合計は3,708円。当時住んでいた東京を離れるまで、あと10日ほどの頃だった。
 この時は東京生活の最後に旅をしておきたいとおもい、岡山県の倉敷をはじめ、広島の福山、尾道鞆の浦、そうして帰りに京都と、確か4泊5日で巡っていたのだった。
 旅は天候に恵まれた。最後の京都では多少雨に降られたものの、それ以外は晴天に次ぐ晴天で夕焼けも綺麗だったことを覚えている。鞆の浦では、宮崎駿が借りた家を探しながらお昼に雑穀米のカレーを食べた気がする。当時のぼくは素人なりにもフィルムライカとポラロイドに凝っていたので、夢中で風景を撮っていた。
 実家の岩手に帰ってしまったら、西日本への旅は簡単にはできなくなってしまう。だったら今のうちに、それも思い出に残る形の旅にしたい、そう、最後の思い出は旅にしておきたい━━、後継やら親の面倒やら、そういったものの引力を受けて、それも反抗する勇気もいまひとつ出ないままなるように決めたUターンが、その不完全な東京生活への別れの寂しさが、当時のぼくの胸にはしこりとしてつっかえていた。
 自分自身の意志力のなさや、「仕方がない」という感情へのやるせなさをどうにか別の方向へ持っていこうとして、それと実家や親戚や近所へのとるにたらない鬱屈した反抗として旅に出た。多分、きっとそうだった。
 本当に、お前は今更現れて何を訴えるというのか、今のおれでも笑いに来たのか━━、全体的に薄く黄ばみを帯びたレシート一枚で、こんなに思い出がよみがってくるのだから、それは不思議なことだった。そうして、懐かしかった。
 思い出って、いったいなんなのだろう。そんなバカみたいなこともかんがえてしまった。思い出したところで、取り返しのつくものでもないのに。
 今では一人暮らしから家族暮らしが当たり前になり、お金が貯まればホイホイ電車に乗っていた当時がウソみたいに、旅に慎重になってしまった。いや、当時からして出掛けすぎだったのかもしれない。それも何かを得ようとするのではなく、ただ出掛けたくて出掛けていた。若気の至り、と指摘されればその通りだ。でも、もっとたくさん旅をしたかったなあ。
 ぼくはレシートを再び折りたたむと、申告用の保存箱とは別の入れ物に、そのどこへも申告する当てのないレシートを入れておいた。まさか思い出が追徴課税されることもあるまい。保存期間は、とうに過ぎている。 

幼い日の記憶

 鶴の舞橋という日本一長い木造の橋を見てみたくなって、ぼくは青森に旅に行ったことがあった。
 岩手からまずは新青森駅まで新幹線に乗り、そこからは在来線の奥羽本線に乗り換えた。川部駅でまた五能線に乗り換えた。
 ぼくが降り立ったのは陸奥鶴田という駅だった。駅舎の造りも、どこか羽を広げた鶴をおもわせるおしゃれな見た目だ。
 鶴の舞橋が観光名所であるためか、あちこちで鶴をあしらったデザインを見た。
 コインロッカーであらまし荷物を預けて、ぼくは旅の目的地を目指した。
 本来なら、そこへは車で行くべきなのだろう。なにせ最寄り駅から歩いて1時間弱。道路も、歩道が確保されているわけでもなく、ぼくはしょっちゅう車の邪魔になった。
 それでも、自分の歩調で少しずつ移ってゆく光景は、旅情をそそられるものがあった。さすが青森と言わんばかりに平地にはりんご畑が広がり、その向こう側に続くように岩木山がそびえていた。そびえる、というよりは、ゆったりとやわらかく佇んでいる。
 りんごの枝は道路にまではみ出さんばかりで、収穫間近の赤い実が日の光を受けながらたくさんなっていた。
 そんなりんごの町を歩いて3、40分ほど立った頃だろうか。
 通路右手、奥まったところに校舎のような2階建ての建物が見えてきて、ぼくはふと足を止めた。
 それは緑色の屋根をした木造の旧小学校だった。
 「鶴田町立水元小学校」とプレートには書いてあった。今は伝承館として機能しているらしい。
 木造の校舎というのは、そこにあるだけでどこかなつかしさをそそられるものだ。時の長さと木のあたたかさを感じさせるからだろうか。それが旅先で偶然発見したものであれば、なにかその感慨もひとしおだった。
 ぼくはその校舎の雰囲気につられて、メインディッシュの橋の前に寄り道することにした。
 校舎の入り口を開けると、受付のおねいさんが簡単な説明をしてくれた。
 ここは19年前まで児童がいたとのことだった。その後別の小学校と合併し、廃校となり、今は伝承館として開放されているとのことだった。
 ぼくは順路に従い廊下を歩いた。
 往時には子どもたちの活気に満ち溢れていた校舎も、役目を終え、定年退職した今では、ひとり分の歩く音だけでもよく響いて聞こえた。天井から吊り下がっている「静かに」と書かれた看板が、なんだか余計に室内の静けさを、むしろ寂しさをも感じさせるのだった。
 ぼくはいつしかなつかしさを抱きながらゆっくりと歩いた。それは自分が小学生だった頃をおもい出していたということよりも、幼い頃に見ていたテレビ番組の影響が大きい。
 ぼくがまだ5、6歳の頃、『ポンキッキーズ』という番組があった。
 そこでは毎回エンディングで、米米CLUBの『Child's days memory』が使われていた。その際或る小学校の木造校舎が映像として流れていて、それが印象に残ったのだった。
 当時のぼくは、エンディング前にやっていた『機関車トーマス』を見んがために『ポンキッキーズ』を見ていたので、そのエンディングはおまけみたいなものだった。
 というか『機関車トーマス』の時点でちょうど保育所に行く時間と重なっていたこともあったので、エンディングは父に録画してもらったビデオでたまに眺める程度でしかなかった。話と話の間に流れるCM程度の認識だったかもしれない。
 それが不思議なもので、大人になってからふとその曲をおもい出しふただび映像を見てみたら、その歌詞の内容とともに、流れてくる校舎にとてもなつかしい気持を抱いてしまっていた。
 どうしてもっと早くにこの映像の魅力に気がつけなかったのだろう。
 その映像によく似た校舎にいることで、まるで自分がその映像の中にいる錯覚を覚え、それが余計になつかしい感情を引き出してしまうのだった。まさか旅先でこんな体験ができるだなんておもってもみなかった。そもそも小学校の、それも木造の校舎に入れるなんて経験は普通できない。そういった突然の出会いであればこそ、すなおにぼくのこころがありのままの感情をわかせることができたのかもしれない。
 いや、もっと単純に、自分が大人になってからようやくその良さに気づいた『Child's days memory』の映像を我が身で追体験できるような気がしたことがうれしかったのだ。それが突然のことだけに、余計に嬉しかった。
 ぼくは『Child's days memory』の映像を真似しながら、自分でも教室内や廊下の動画を撮っていった。室内は陽の光と静けさとで満ちており、この静けさに溶けてゆくように、当時食い入るように『ポンキッキーズ』を見ていた幼い日の記憶が自然とわいてくるのだった。
 同時に、とても穏やかな心持に包まれた。なんというのだろう、ようやく「もっと早くに・・・」という後悔をなだめることができた心境になれたのだろうか。
 蛇口の影、階段の手すり、机の傷、黒板消し━━、そんななんでもない風景の一部のようなものが、なんでもないものだからこそ、愛おしいものに感じられた。それらのものが静謐な空気の中で眠っている様子は、とてもこころ落ち着く光景だった。
 ぼくは終始顔がほころんだまま、30分ほどかけて木造校舎を歩いて回った。
 
 小学生の頃はあんなに大きく感じた校舎も、中学校に入ってから来てみたらひどく小さいものに見えたものだ。昔、そんな体験をした。
 一体どういった感覚の作用がはたらくのだろう。端から端まで渡るのに随分と長く感じた廊下なのに、その長さにおどろいていたのに、大人になってみたら、なんてことはない短さで、当時の自分の感覚が逆に不思議だった。児童に合わせて建てられた校舎の寸法に、自分がそれだけ合わない大人になったからだろうか。
 建物を出てから晴れやかな空を見上げたとき、そんな突拍子もないことが頭に浮かんできた。木造校舎のたたずまいと真っ青な空にあてられたのかもしれない。おかしなことだった。
 ぼくは不可解な、でも全然不快ではないそんなおもいを胸に、本来の旅の目的地、鶴の舞橋へと再び歩いていった。
 
 ・・・まあ、橋は工事中だったけど・・・