STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

年の瀬雑記

 12月21日。
 仕事の休みを利用して、郵便局へ荷物を出しに行ってきた。不要となった私物を段ボールに詰めて、買取をお願いしたわけだ。次回東京に行くための旅費の足しになれば、と願った。査定結果がわかるのは来年になるかもしれない。
 
 その際父にも用事があったため一緒に出かけた。2、3年振りで知り合いの家に向かったのだった。
 すっかりご無沙汰していたため、父もぼくも、そのひとの家に向かう道がうろ覚えになっていた。
 国道から脇道に逸れると、あとはもう曖昧な記憶をなんとか引っ張り出して進むしかない。が、目の前に実際の道路があれば意外におもい出せるもので、多少四苦八苦しながらもそのひとの家に迷わずつけた。家で作った干し柿を渡し、年末のあいさつとした。
 
 家路に着く途中で「1221」のナンバーを見た。
 
 家に着くと、近くに住む姪っ子たちがやってきた。なぜか知らんが団子を作りたいという。
 あいにくと団子粉は切れていた。きのう、家のじいさんの命日であったからその際に使ったのだ。なかなかタイミングが悪い。
 団子は作れないと言うと、姪っ子たちは納得いかない様子だった。
 ほしいのではなく、作りたいと言っているのだ、ここはやらせてあげないと、とぼくはなんだか妙に大人ぶることにして、近場の商店で買ってくることにした。
 車はさっき乗った乗用車ではなく、たまには動かさないと、と軽トラのエンジンをかけた。そこで気づいたけれども、この軽トラ、10月半ばに車検に出して以来乗っていなかった。まあ、かかってよかった。
 じいさんが使い始めてから20年になる軽トラで商店に向かった。車体には日に焼けた枯葉マーク。20年で約3万キロ。農作業用の車なんて大体こんなものなのか。
 団子粉を買うついでに人数分のプリンも買った。
 
 再び家に帰ると、お昼だというのになぜか両親は掃除に勤しんでいた。我が家ではなぜかお昼が迫るとなにかしら始め出す。結果お昼がいつも遅れる。
 姪っ子たちはオカンと団子を作った。色々な形を試したようだった。ぼくはカップ麺のうどんをすすった。
 
 夕方。
 三鷹に住んでいる友人から荷物が届いた。
 この間東京で会った際、今度三鷹の森ジブリ美術館に行ってくると話していたので、ちょっと期待していた。
 中を開けてみると、ありがたいことにジブリのグッズが入っていた。サギ男のミニフィギュアにパズル。サギ男のフィギュアはさっそく机に飾った。名プロデューサーがこっちを睨んでいる。良いお土産だ。
 パズルは年末年始を利用して組み立てることにした。ちょうどいい暇潰しになる。あとでジブリ用のフレームを買うことにした。
 荷物の中には他にキウイとキウイのお酒が入っていた。どうやら三鷹はキウイの名産地らしい。キウイのお酒は家族で飲み、キウイはりんごと一緒に袋に入れて後日食べることにした。楽しみが増えた。友人に感謝だ。
 
 ぼくは顔を赤くしながら、今日一日に満足した。
 

ベートーヴェン、気絶

 年末に合わせるわけではないけれど、この間盛岡の肴町を歩いていたとき、通りに出ていたワゴンの中にベートーヴェンの第九に関する本を見つけたのでおもわず買った。寒気身にしみる中、歓喜の季節になったというわけだ。
 今年の年末は片手間にこれを読みながら第九でも聴こうとかんがえた。
 タイトルは、その名もズバリの『第九』。
 著者は中川右介氏。第九がどのような聴かれ方をしてきたのかを描こうとする本だった。
 まだ半分も読んでいないものの、そこで面白い箇所を見つけた。
 時は1824年5月7日。
 ベートーヴェンが第九を書き上げてから初めての公演日だった。
 本には、「ベートーヴェンは自分が作った曲を早く演奏したいという、芸術的欲求で初演を急いでいたのではない。(中略)収入を得ようとしていた」とある。当時の彼は経済的に厳しく、早くお金が欲しかったのだ。懐が寒いなんて、まるでボーナスを期待していたのに出なくてがっかりしたおれじゃなイカ
 ベートーヴェンは自ら興行を打つつもりで公演会場を選ぶ傍ら、楽譜の出版社とも話をつけていた。学校の音楽室でよく見たあの人物が、ビジネスマンよろしく収益を算段していたとは。ぼくは急にベートーヴェンに親近感がわいた。
 二転三転した会場選びがようやく決まると、楽団、歌手も着々と決まってゆく。最も、歌手に変更があったり、ベートーヴェンの意向で演奏者の人数が増え、アマチュアからも加わることになったり、何かと慌しかった。リハーサルも片手で数えられる程度。
 そんなこんなで初演を迎えた。
 結果的には演奏後に拍手喝采がわき起こるほどだった。
 この拍手が、第四楽章後だったのか、テンポが早くて盛り上がる第二楽章後だったのかの説があり、或いはその両方で起こったのかもしれないものの、それはさておき、公演自体は成功と言ってよかった。
 上演後、ベートーヴェンは形ばかりで壇上にいて聴衆に背中を向けたままだった。すでに耳がほぼ聞こえなくなっていたから、気づかなかったのだ。他のひとがベートーヴェンの袖を引っ張り、そこでようやく万雷の拍手を送る聴衆を見ておじきした。
 のちにロマン・ロランというひとが当時のことを(と言ってもこのひとは会場に居合わせたわけではないらしい)感動的に書き綴っている。ベートーヴェンも感動のあまり失神したとのことだった。まあ、情熱的な音楽家なら有り得るかもしれない。
 ともあれ、聴衆は満足して帰ってゆき、ベートーヴェンもまた満足したそうである。ここまでだったら、めでたしめでたし。
 が、蓋を開けてみると、ベートーヴェンがあんなに躍起になっていた収益はなんと見込みの2割ほどしかなかった。2割引きではなく2割。これでは生活が回らない。
 だから、ベートーヴェンが気絶したのは実はそれを知ってからだった、との説もある。それが妙に面白かった。これは中川氏の文章運びが上手いことも挙げられる。試合に勝って勝負に負けた、とでも言うのか。本人には申し訳ないが。
 この初演の、成功なのか失敗なのかビミョーな結果がその後に影響したのか、しばらく第九は不遇の時代を送る。
 詳しいことは本に譲りたいけど、まず今日ぼくたちが聞いているような完全な形として演奏されてはいなかった。当時のひとたちにはとにかく「長い」曲であったらしい。どうせまだあんまりみんな知らないから、とベートーヴェンに内緒で一部をカットした短縮版で公演されることが多かった。時には第四楽章がまるまるカット、なんてこともあった。
 当然ながら、第九の歌唱言語はベートーヴェン母語、ドイツ語だ。
 もちろんこれは元になったシラーというひとの書いた詩もドイツ語であるからともいえる。日本で第九が演奏されるときも、大抵はドイツ語で歌われる。
 けれども例えば、当時英国で第九が公演される際は、音楽の発展した国イタリアの言語に訳された。そもそもドイツ語という一部の国でしか通じないことばで歌われても、聞いてる方としてはちんぷんかんぷんなわけで(多分歌っている方も)、カットしたりオリジナルを無視したり、でもそれが昔は普通だったようだ。
 それになにより、当時の楽団にとって第九はやたらめったら難しかったらしい。
 当時としては珍しい歌唱付きの交響曲だけに、ただでさえ奏者とは別に歌手を集めるだけでもひと手間なのに、やってみたらこれがまた演奏しづらい。そして、やっぱり長い。長いのは嫌だし、最終章には意味のわからない歌がついているし、そんなこんなでいつの間にか「奇妙な曲」とレッテルを貼られてしまった。
 今では世界中のひとびとが愛好している、おそらく世界一有名な交響曲であるのに、初めはボロクソだったのには、意外であり、納得もあった。
 大抵の有名人、名作は、批判と非難から始まるものだ。ぼくの好きな宮崎駿監督も、初監督作品の評価がイマイチで不遇に遭うし、宮沢賢治ゴッホなんかは生きているときに評価してなどもらえなかった。良いものほど、理解に時間がかかる。長いと煙たがられた第九もまた、その良さが受け取られるまでに長い時間が必要だったのだろう。生活費が気が気でなかったベートーヴェンはやってられなかっただろうけど。『運命』の冒頭部分がよく似合う。
 その後第九はメンデルスゾーンワーグナーらの活躍、さらには各国で楽団員の体制が整い技術力が上がってゆくに従ってようやく名曲としての地位を築いてゆく。
 ぼくはこの本を読みながら、ベートーヴェンの人間的な一面を知り、第九の遍歴を学べるような気がした。交響曲が、多くの楽器や声楽が合わさって成り立つように、第九もまた、多くの音楽家によって支えられて現在に至っている。
 本を読み終えたあとに聴く第九は、前よりちょっと違って聴こえてくるかもしれない。

人道橋

 2023年は、ぼくにとって太宰治にゆかりのある年となった。
 10月には、生家のある青森県五所川原市に赴き、長年の憧れであった斜陽館を見てきた。一時は旅館としても使われていたとあって、その贅沢な間取りに見惚れたものだ。本でしか知らない作家に間近で出会えたような、そんな錯覚をおぼえた。
 12月にその土産話を持って東京に行ったら、ちょうど太宰の愛した人道橋が今日明日にも取り壊されるという話を聞いた。太宰の暮らした三鷹に友人がいなかったら、そんなことも知らなかったかもしれない。
 これもなにかの縁、と捉え、特に予定のなかったぼくは、翌日早速その橋を見に三鷹駅へと降り立った。
 その日はとても天気が良かった。
 雲ひとつない空の下、武蔵境駅方面へ歩くこと数分、やけにひとびとが立ち止まったり往来している橋が見えてきた。それが三鷹跨線人道橋、線路をまたいで渡るための、まもなく解体を迎えるその橋だった。
 昭和4年に建てられたというその橋は、すっかりコンクリートがすり減っていて砂利が剥き出しになっていた。手すりも塗装剤に細かくヒビが入り、サビが一面を覆っている。古びた、というよりも、くたびれた印象を感じるのには充分なほどその橋は老朽化していて、なるほど解体の決定もやむなしとうなずける状態だった。それほど傷んでいた。
 ぼくは階段を登り、向こう側まで伸びる通路をゆっくりと歩いた。
 橋の上ではたくさんの人がカメラを手に写真を撮っていた。まるで急いで思い出を形にするように。失って初めてその有難さを知る、とよく耳にするけれども、ここにいるみんなは、まさに今そういう心情がわいているのかもしれない。
 ぼくも歩いたり、立ち止まったりしながら、橋そのものを眺めたり、橋の上から行き交う電車を見下ろした。そうして太宰がこの橋を歩く姿を想像してみた。
 正直言うと、大した橋でもなんでもなかった。
 渡月橋錦帯橋のように意匠ある造りでもなければ、レインボーブリッジや瀬戸大橋のように豪華で存在感のある造りでもない。いかにも実用的に建設された感のある、言ってしまえば味気のない無機質な、これと言って特別感のある橋ではなかった。偶然にも長い間存在した、というただ単に歴史の長さだけが取り柄のような橋だった。取り壊されると知っていなければ気にも止めないで通り過ぎていたことだろう。実際ぼくは数回ほど、ジブリのスタジオを見るためにこの沿線沿いを通った気がしたけれども(当時のぼくにとって三鷹と言えばジブリであった)こんな橋があるなんて気づいてなどいなかった。太宰に関係あることすらちっとも知らなかった。
 今わいわいやっているひとたちだって、ぼくと同様、なんか知らんけど解体されると聞いたからとりあえずノリで来てみた、という能天気な物好きが大半なんじゃないか。要は、ゲンキンなひとたちだ。いまいち盛り上がりに欠けるぼくは、そんな意地の曲がった目で周りのひとたちを見ていた。
 それでも、そんなひとたちをぼんやり見ていると不思議なもので、地元の人間でもなんでもない初めてこの橋を登ったぼくの心情にも、なんだかじわじわと一抹の寂しが込み上がってくるのだった。これは、ひょっとしなくても太宰の影響があるに違いない。
 本の中でしか知らない、生きていた時代が全然被っていないぼくにとって、この橋はその太宰が実在していたことを今に伝えてくれる数少ない現存物であった。あの生家、斜陽館や、その近くにある津島家別邸のように。その太宰の面影が染み付いているとでもいう橋がなくなってしまうのだ。それはやっぱり、寂しいものがあった。
 この橋は、太宰が三鷹に暮らし始めた頃だとまだ出来上がってから10年ほどで、古さを感じさせることはなかっただろう。それが今では親子3代の、或いは4代まで思い出になるほどの歴史を帯びた橋になっている。建てられてから今日まで、一体何万人の人々がここを往来したのだろう。床面のすり減り具合がそれをじっと物語っている。
 ここには電車の待機場もあり、停車中の車両がいくつも並んでいるところを見下ろすことができるからそれも見応えがった。親に連れられてきた子どもたちは作業員の方に手を振っている。橋が日常の一部であり、日常を繋いでいる。それを垣間見た気がした。
 ありふれた、生活のための橋として市民の身近にあったからこそ、消えてゆこうとしている今、こんなに惜しまれながらも親しまれているのだろう。ぼくはようやく橋そのものへおもいを馳せられる気がした。
 ひとつの橋がその役目を終えて消えてゆく。そこに立ち会えただけでも満足だ。
 橋にはひとが大勢いるものだから、ぼくはつい億劫がって、向こう側に渡るのを止して元来た道を引き返した。この、億劫がるところが、長年親しんできたひとと昨日今日駆けつけてきた旅人の違いなのだろう。あとはもう、三鷹市民に席を譲って、ぼくはトトロのシュークリームでも買いに吉祥寺に行こうとその場を離れた。
 太宰がいたら、橋の撤去についておもうところを書いたかもしれない。
 橋はこちらと向こうを繋ぐものだけれども、物理を超えて、太宰の暮らした昔とぼくがいる今とを繋いでくれたように、そんな風に感じるのだった。

悪夢の在り方

 今年夏のジブリ映画『君たちはどう生きるか』については、さまざまのひとが、賛否両論、思い思いの考察を語っていた。
 ぼくの友人たちが出した結論としては、絵コンテ段階でやめておいた方がよかった、というものだった。その際の例えが面白かった。
 話の内容はすっかりうろ覚えになってしまったけれども、音楽をやっているその友人たちによると、『君たち』はクイーンとローリング・ストーンズイーグルスによって作られたビートルズの楽曲みたいなものだそうだ。
 なまじビートルズメンバーと接触があり、実力もあるだけにビートルズっぽいものは完成したものの、ビートルズ本人の監修が入っていないためなんだかチグハグにできている。デモテープはビートルズで、ギターはちゃんとリッケンバッカーなのに、独奏が入っていたり、余計なものがついていたり、なんだか妙な完成品。そんな例えだった。
 つまりはそんな風にして、宮﨑駿(今回はなにをおもったか『崎』ではなく『﨑』の字だ)が想像の赴くままに描いた絵コンテを、あとは勝手にやってくれとアニメーターに丸投げしたかのような今回の映画である、という見解だった。アニメーターの方も実力もあればジブリと長い関わりがあるだけに、ジブリ映画風の絵柄やカット割を効かせているものの、では駿らしいかというとそうではない。声優陣もなんだかオイシイところだけをとってつけたような、畑違いの印象。出し惜しみしておいて出たパンフレットも、なにこれ? という作り。なにも新しいことが書いてない。
 ジブリ映画ではなく、ジブリっぽくカッコつけてみた、そんな感じの映画であった。
 映画公開の後、三鷹の森ジブリ美術館で『君たち』の絵コンテの展示があったらしい。
 監修したのは駿の息子、吾郎さんで、その展示を駿が見に来たとき、一言「悪夢を見ているようだった」と残していったそうだ。おいおい駿、お前の描いた絵コンテだぞ。無責任な発言だ、と友人たちも呆れていた。
 ビートルズも今年、ジョン・レノンが残したデモテープを元にAIの助力を借りて新曲を発表した。こちらは概ね好評のようで、つい『君たち』との在り方を比べてしまった。
 ぼくにとっては、宮崎駿の最後の作品は『風立ちぬ』であり、『君たち』は宮「﨑」駿のデビュー作なのだ、と結論づけた。ジブリの他の作品にも、脚本は駿だけど絵コンテや監督は別の人、という映画がある。それと一緒で、今回の映画は駿があまりアニメーション制作に入り込んでいない気がした。この邪推が正しいと仮定して、ではなぜそんな方法を取ったのか。
 駿も、それからジブリも、すっかり歳をとったからだろう。ぼくは友人たちの粋な例え話を聞きながらふとそうおもった。
 それに、どうせならエンディングは『君たちキウイ・パパイヤ・マンゴーだね。』がよかったなあ。・・・
 

ナナチが来た日

 ナナチが来た。
 
 『メイドインアビス』という作品がある。WEBコミックガンマというところで連載されている漫画で、2度アニメ化されている。劇場版も公開された。
 内容は他に譲るとして、その中にナナチというキャラクターが出てくる。ウサギみたいな見た目の、愛嬌と味のあるキャラだ。
 このキャラの等身大フィギュアが出ることを知ったのは、去年(2022)の7月くらいだったろうか。
 ちょいとサイトを調べると、4分の1スケールとともに受注生産という形で予約を受け付けていた。お一人様1個迄、色々な角度からの写真が説明付きで載っていた。
 その存在を知ったときはおどろいたものだった。
 それというのも、ぼくはこのキャラの等身大フィギュアでも出ないかなあと淡い期待を抱いていた矢先でもあったからだった。この見た目は等身大でこそ活かされてくるはずだ。そんな風におもっては想像の中でその等身大を形作っていた。
 綾波レイ等身大フィギュアが、同じ会社から受注販売されているのを見ていたからというのもあった。綾波があるなら、ナナチがあったって良さそうなものじゃなイカ。なんの根拠もないけど、とにかくあったらいいなをぐるぐるかんがえていた。あったらいいなは形にするべきだ。
 それに当時は、手に入るナナチのフィギュアが軒並み売り切れていて、買おうにもプレミア価格になっていた状況もある。ぼくは基本定価以上で商品を買うことに釈然としない者なので、この現状には不満があった。欲しいけれども、買えないし買いたくない。どうせ高いなら、もっとちゃんとした、それこそ等身大フィギュアでも━━、そのおもいが現実のものになったのだから、おどろかないではいられなかった。
 販売期間は7月22日から10月31日迄、この約3ヶ月間の内に予約すると、来年の秋ごろ届く予定となっていた。
 当たり前だけども、スケールもデカければ値段も張りに張っていた。そりゃあ車を買うよりかは安い方だけど、中古車並みの価格である。ぼくは中古車が自分の部屋にデンッと構えているところを想像した。うん、入りきらん。
 でも、ナナチなら入る。
 買うっきゃない。
 支払い方法が一括のみであったり、キャンセルができないことであったり、そこいら辺で二の足を踏んでいたものの、こんなご縁を逃してはいられない、それに現実味のある手に届く値段だ、いざとなれば金融機関でナナチローンを組めば良し、とぼくは意を決して予約ボタンをポチリと押した。ワンクリックで高価なお買い物ができるなんて、世の中、狂ってるぜ。それでも、憧れは止められねぇんだ。
 そんなこんなで、ぼくは予約をしてあとは届くのを待っていたのだった。
 ・・・家族には、なんて目で見られるのだろう。・・・
 
 11月22日。水曜日。
 前日の電話通り、2時半頃、ナナチを載せた配送業者のトラックが家に来た。
 「仙台ピアノサービス」と荷台には書いてある。確かに、そのナナチはピアノみたいにデカく、割れ物要注意だ。どのように配送されるのか気になっていたけど、こういうのはちゃんと専門のひとたちがいるらしい。
 どうやら盛岡支社から出発してきたらしかった。片道2時間。いやはや、ご足労おかけいたします。
 配送に際しては、希望日や玄関の大きさなど、販売会社の方から事前にメールが来ていたので、間口の寸法とともに、せっかくなら、とぼくは良縁を感じさせる良い夫婦の日にお願いしていた。その通りになったことは素直にうれしかった。
 昔は友人にフィギュアと結婚する冗談を言った気味悪く青臭い日々があるけれども、まさか本当に1分の1フィギュアを購入する日が来ようとは。
 間違いなく、これまで買ったフィギュアの中の最高額であった。今乗ってる車よりも高いって、及川はん、あんたの金銭感覚どないなっとんねん。
 ふたりの配送業者の方とともに、運搬の経路を話し合った。
 それから、どデカいダンボールがトラックから我が家へと運ばれた。ダンボールにもしっかり、「メイドインアビス ナナチ 1/1スケール等身大フィギュア」と明記されている。業者の方にもすごいですねぇ、とほほえまれる。まあ、1分の1ですからね。お兄さんもナナチを運ぶのはこれが初めてであろう。
 ダンボールを降ろして、切れ目に沿って封を切れば、観音扉でご開帳というわけだ。
 ただその瞬間は、部屋の間取りや運び方やらの関係でぼくからは拝めなかった。
 別に作業を逐一監視する気はなかったので、ぼくは無事部屋まで到着したのを見計らってあとは居間で組み立てが終わるのを待っていた。
 作業は30分くらいだっただろうか。
 時折業者のお兄さんたちのどうするかこうするかという話し声を小耳に挟みながら、破損のないよう丁寧に行なってくれているんだなあとしみじみしているうち、すみませんと呼ばれた。
 ダンボールと壁の間をすり抜けて行ってみると、そこには台座に降ろされたナナチがいた。いや、ホントにいた。
 あとは耳を取り付けるだけで、とりあえず傷や破損がないか確認してほしいと言う。ぼくは足元から徐々に目線を上げながらそれらしいものがないかチェックした。それらしいものなどない。お兄さんたちの手練の賜物である。
 台座の保護フィルムが剥がされ、耳がつき、ついにナナチが完成した。
 WAO! ナナチである。どこから見てもナナチである。らんまは2分の1。ナナチは1分の1。おいおい、こいつぁすごいぜ。笑いが止まらないぜ。
 業者の方から説明書を受け取り、サインをして、作業は無事終了した。
 お兄さんたちは発泡スチロールの破片をくまなく回収しようとしているので、あとは自分でやりますと伝えた。ぼくはこのおふたりに感謝しかない。ピアノよりは軽く小さいだろうけれども、神経を使う作業は大変だったはずだ。
 それでもお兄さんたちは嫌な顔ひとつせず帰って行った。こうして運ぶひとがいてこそナナチは成り立つのだ。
 ここからはナナチタイムである。
 ぼくは何度も自分の部屋に入り、そこにナナチがいるその存在感を噛み締めた。なにせ去年から想像を膨らませていたフィギュアがそこにデン、と構えているのだ。ケタ違いの迫力である。想像が現実のものとなった喜びで今はいっぱいだった。恐るべし等身大、と言ったところか。横向けば、ナナチ、振り返れば、ナナチ、となりのナナチ、すっかりそっくり、そのまんまナナチ。ナナチよ、お前はどこのナナチじゃ。
 小学生レベルである。
 フィギュアはひとを童心に戻す。なにせぼくのテンションは箱から取り出されているときからおかしくなりっぱなしだった。こんな買い物、多分もうないだろう。家がナナチを運べる間取りでよかった。
 そんなこんなで、ぼくのその日は暮れていった。
 
 今もナナチは順次配送されていて、全国のあちこちにお披露目されている。全都道府県にまで及んでいるかもしれない。アーバンナナチにローカルナナチ。みんなどんな風に設置しただろう。2階に運ぶとしたら、きっと一苦労かかることだろう。ぼくは日本中にナナチが立っている姿を想像した。
 そんなナナチレポート。