STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

人道橋

 2023年は、ぼくにとって太宰治にゆかりのある年となった。
 10月には、生家のある青森県五所川原市に赴き、長年の憧れであった斜陽館を見てきた。一時は旅館としても使われていたとあって、その贅沢な間取りに見惚れたものだ。本でしか知らない作家に間近で出会えたような、そんな錯覚をおぼえた。
 12月にその土産話を持って東京に行ったら、ちょうど太宰の愛した人道橋が今日明日にも取り壊されるという話を聞いた。太宰の暮らした三鷹に友人がいなかったら、そんなことも知らなかったかもしれない。
 これもなにかの縁、と捉え、特に予定のなかったぼくは、翌日早速その橋を見に三鷹駅へと降り立った。
 その日はとても天気が良かった。
 雲ひとつない空の下、武蔵境駅方面へ歩くこと数分、やけにひとびとが立ち止まったり往来している橋が見えてきた。それが三鷹跨線人道橋、線路をまたいで渡るための、まもなく解体を迎えるその橋だった。
 昭和4年に建てられたというその橋は、すっかりコンクリートがすり減っていて砂利が剥き出しになっていた。手すりも塗装剤に細かくヒビが入り、サビが一面を覆っている。古びた、というよりも、くたびれた印象を感じるのには充分なほどその橋は老朽化していて、なるほど解体の決定もやむなしとうなずける状態だった。それほど傷んでいた。
 ぼくは階段を登り、向こう側まで伸びる通路をゆっくりと歩いた。
 橋の上ではたくさんの人がカメラを手に写真を撮っていた。まるで急いで思い出を形にするように。失って初めてその有難さを知る、とよく耳にするけれども、ここにいるみんなは、まさに今そういう心情がわいているのかもしれない。
 ぼくも歩いたり、立ち止まったりしながら、橋そのものを眺めたり、橋の上から行き交う電車を見下ろした。そうして太宰がこの橋を歩く姿を想像してみた。
 正直言うと、大した橋でもなんでもなかった。
 渡月橋錦帯橋のように意匠ある造りでもなければ、レインボーブリッジや瀬戸大橋のように豪華で存在感のある造りでもない。いかにも実用的に建設された感のある、言ってしまえば味気のない無機質な、これと言って特別感のある橋ではなかった。偶然にも長い間存在した、というただ単に歴史の長さだけが取り柄のような橋だった。取り壊されると知っていなければ気にも止めないで通り過ぎていたことだろう。実際ぼくは数回ほど、ジブリのスタジオを見るためにこの沿線沿いを通った気がしたけれども(当時のぼくにとって三鷹と言えばジブリであった)こんな橋があるなんて気づいてなどいなかった。太宰に関係あることすらちっとも知らなかった。
 今わいわいやっているひとたちだって、ぼくと同様、なんか知らんけど解体されると聞いたからとりあえずノリで来てみた、という能天気な物好きが大半なんじゃないか。要は、ゲンキンなひとたちだ。いまいち盛り上がりに欠けるぼくは、そんな意地の曲がった目で周りのひとたちを見ていた。
 それでも、そんなひとたちをぼんやり見ていると不思議なもので、地元の人間でもなんでもない初めてこの橋を登ったぼくの心情にも、なんだかじわじわと一抹の寂しが込み上がってくるのだった。これは、ひょっとしなくても太宰の影響があるに違いない。
 本の中でしか知らない、生きていた時代が全然被っていないぼくにとって、この橋はその太宰が実在していたことを今に伝えてくれる数少ない現存物であった。あの生家、斜陽館や、その近くにある津島家別邸のように。その太宰の面影が染み付いているとでもいう橋がなくなってしまうのだ。それはやっぱり、寂しいものがあった。
 この橋は、太宰が三鷹に暮らし始めた頃だとまだ出来上がってから10年ほどで、古さを感じさせることはなかっただろう。それが今では親子3代の、或いは4代まで思い出になるほどの歴史を帯びた橋になっている。建てられてから今日まで、一体何万人の人々がここを往来したのだろう。床面のすり減り具合がそれをじっと物語っている。
 ここには電車の待機場もあり、停車中の車両がいくつも並んでいるところを見下ろすことができるからそれも見応えがった。親に連れられてきた子どもたちは作業員の方に手を振っている。橋が日常の一部であり、日常を繋いでいる。それを垣間見た気がした。
 ありふれた、生活のための橋として市民の身近にあったからこそ、消えてゆこうとしている今、こんなに惜しまれながらも親しまれているのだろう。ぼくはようやく橋そのものへおもいを馳せられる気がした。
 ひとつの橋がその役目を終えて消えてゆく。そこに立ち会えただけでも満足だ。
 橋にはひとが大勢いるものだから、ぼくはつい億劫がって、向こう側に渡るのを止して元来た道を引き返した。この、億劫がるところが、長年親しんできたひとと昨日今日駆けつけてきた旅人の違いなのだろう。あとはもう、三鷹市民に席を譲って、ぼくはトトロのシュークリームでも買いに吉祥寺に行こうとその場を離れた。
 太宰がいたら、橋の撤去についておもうところを書いたかもしれない。
 橋はこちらと向こうを繋ぐものだけれども、物理を超えて、太宰の暮らした昔とぼくがいる今とを繋いでくれたように、そんな風に感じるのだった。