STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

猫のこと

 明朝、飼い猫が死んだ。
 母が夜中過ぎに苦しそうに鳴く猫の声を聞いていたという。そうして父が起きて来たとき動かなくなっているのを発見した。まだ体は柔らかかった。朝のうちに庭へ埋葬した。
 ぼくとの付き合いは8年ほどだっただろうか。
 ぼくが実家に戻ってきたときにはすでに家にいた。ペルシャ猫というのだろうか、あんな感じのふさふさした毛で覆われていた。我が家ではなんだかんだ、野良猫から始まった猫との暮らしが今日まで続いているけれども、どことの雑種か、そんな猫は初めてで珍しかった。
 それがこの頃は毛もすっかり抜け落ち、体をさわれば骨と皮ばかりが感触として伝わるほどやせほそっていた。頭はすっかり皮がのぞいていた。当時の面影が見当たらないくらいの衰えようだった。
 それでも、ひとを見かけると小走りで近寄ってきてはまだ元気な声でエサをねだっていた。特に父がエサをあげていたので、父には一段と懐いていた。孫にあたる子猫ともよくじゃれていた。
 この冬は死にそうにないな、と家族で話していたものの、こちらのそんな目算は外れてしまった。あんなに毛で覆われてたやつが、こんなにもほっそりとするのだから、老いとは不思議なものだった。
 動物というのは、死というものをぼくらに教えてくれるとても身近な存在とも言えるかもしれない。
 ひとよりも早く生まれて早く死んでゆく。ぼくらからしたらその短い一生に、その死に相対する度に、なにかしら感慨にふけるものを胸に抱く。自分が持っているいのちを再認識させるからだろうか。ぼくとは比べものにならないほどに猫好きの方なら、その死への想いも一入だろう。犬好きでも、ウサギでも、動物が好きなひとであれば、誰であれ、影響を受けないではいられない。ぼくがこうして、猫のことを書いているように。
 夕方にもなると、その猫がいないことをなんだかようやっと自覚する。そんな自分がいる。死はそんな風に、後からじわじわと伝わってくることもある。その猫との思い出があれこれ頭に浮かんできて、つい懐かしくなる。
 11月18日が、その猫の命日だ。漱石にちなんで、名前をつけることはなかった。