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令和5年5月11日、ぼくは仕事の休みを利用して、盛岡へ日帰り観光をしてきた。
きっかけは一本のCMだった。
確か3月末か4月始めのことだったとおもう。
チケットは日時指定で、どうやら事前予約らしいことを後から知った時には、すでに特典付きのチケットは完売していた。こちらは情け容赦もない。なにせ5日前までチケット情報なんてのんびりうっちゃっていたのだから、わかるはずもない。何事も初動が肝心だ。
ぼくは12時半からのチケットを購入して、それでよしとした。
5月11日の朝はすこぶるいい天気だった。
ぼくは9時を回ったころに出掛けることにした。ガソリンスタンドで洗車もしたかったし、どうせ出掛けるなら、と母から郵便局への用事も頼まれていたので早めに出ることにしたのだった。
洗車も用事も済ませてから、ぼくは車を走らせた。やが高速に乗り車の速度を上げる。天気がいいとドライブもこころなしか気分が良くなる。スピードや車間距離には気をつけながら僕は車を走らせた。
途中トイレ休憩をはさみながら、盛岡南ⅠCを降りた時は12時数分前だった。お昼の時間だ。
ぼくはなぜか急にからあげくんが食べたくなったので、近くのローソンに駆け込み、おにぎりやチョコバーといっしょにからあげくんの大人のチーズ味を頼んだ。
が、味音痴のためか、ふつうのチーズ味との違いがわからない。いったいなにが大人なのだろう。普通のと食べ比べれば違いがわかったのだろうか。大人のふりかけを意識したのか、大人の事情でもからんでいるのか。自称大人になり切れていないぼくは悶々としながら、よく噛んで飲み込んだ。
それから、ナビに案内されながら右へ左へ小刻みに曲がった。
そうしてついたところは岩手県民会館だった。ここでお目当ての催し物をやっている。
ぼくは早速会館の駐車場に入り込もうとおもったけれども、予想通りというか、満車のランプがついていて、誘導員さんがひまそうにしていた。というわけで近場の駐車場まで行った。我が一関市では、いたるところ無料の駐車場だけれども、盛岡クラスになると停まるのにもお金がかかる。トホホ。ぼくはなぜかこの駐車システムにいつも都会の壁を感じていた。
自分の懐事情はさておき、ぼくはチケットを二度見してしっかり手にもつと、すこし頬をほころばせながらいよいよ目的の会館へとあるいていった。
入り口付近では、さっきのパネルの写真を撮っているお客さんたちが数名集まっていた。
ぼくも写真を撮ろう、とおもってポッケに手をつっこんだら、そんなときにかぎってケータイを忘れてしまう始末。こんなときにひとの素がポロリ出てしまうものだ。車に戻るのも億劫なので、ええい、ままよ、どうせ館内は撮影禁止なのだから目に焼き付けておけばいい、とそのまま受付まで直行した。
館内はすでに午前中から入っているお客さんでにぎわっていた。
みんな展示されてある本やら、鈴木さんの少年時代の四畳半を再現した部屋をじいっと見ていた。どこまでが再現かはさておき、週刊誌がいたるところに積みあがっている光景に、昭和時代の子どもらしさと鈴木さんの熱中ぶりを感じた。
こういった企画展示を見て回るとき、大概自分が近くで見たいとおもうところにいつも別のお客さんがいて、なかなか踏み込めないことがある。
一部の展示物は撮影OKで、そのなかのひとつにカオナシの模型があった。
恋愛なら湯婆婆(なぜ恋愛になったのか、ウケを狙ったのか、恋愛なんて顔してないだろあのバアさん)、開運なら銭婆で(なぜ金運ではないのか)、やたらでかい口の中に手を入れると紋付みたいなものがあり、それを引っ張ると番号が書いてあって、あとは浅草寺みたく、脇に設けられた引き出しから同じ番号の棚を開けることで運勢を占う仕組みだった。
ぼくも銭婆の方でやってみると十二番。早速十二番の引き出しを開けると「仕事を忘れた時良い仕事が出来る」と敏夫風味のある筆致でそう記されてあった。「事」の字が独特だった。
通常占いの紙で真っ先に気になるのは何吉かだ。
けれどもぼくは、占いで重要なのはそこに書かれている歌(和歌。今回の場合は鈴木敏夫の一言)であり、同時にそれをどう解釈するかだ、という意見の人間なので(別に末吉だったからふてくされたわけではない)その一言の言わんとしていることにしばし頭をつかった。
よく仕事は遊びとか、遊び心が必要とか、そんなことを聞くことがある。
要は、仕事であるからとガチガチに力むな、ということだろうか。
仕事、ということばは、一般的にはどうにもネガティブな感情に引っ張られることの気がする。本当に仕事を楽しくこなしているひとは案外少なくて、一見端から見ればまばゆいばかりにおもわれるあのひとこのひとも、実際その輝きはそのひと全体の一割程度で、のこりは苦さ辛さで満たされているのかもしれない。ひとは、たのしいことをしているときこそ、無我夢中というように、時間を忘れたり、疲れを忘れるものだ。ひとの個性はたのしさの中でこそ育まれるものなのかもしれない。忘れることの楽しさ、その楽しさが良さをともなってくる。楽から良が生まれてくる。鈴木敏夫は書いている、「無理にやらせても、面白い仕事になるはずがない」・・・
物販では、全体的に『千と千尋』関係のグッズが多かった。
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出るのは3時過ぎにしよう、とおもい、その間ぼくはその辺をぶらぶらあるくことにした。盛岡だから、盛ぶら、とでも言うのだろうか。
実を言うと、多少なりとも盛岡を散策してみたいという気持もあって今回は出掛けていた。
4月の初め、まだジブリ展のことだけをかんがえていた当時は、ちゃっちゃと行って、とっとと戻ろう、とばかり決め込んでいた。盛岡なんて大して見るべきものもない、だったら仙台に行くし、というか東京に行った方がいい。・・・そんな風に、一地方たる我が県を、同県民だからこそ、どこか冷やかさとひねくれた田舎人意識でとらえていた。こんなところで観光足り得るものなど、たかが知れている。首都圏に倣って小綺麗にアピールしたところで、すべては県民たちの自己満足じゃないか。
そんな矢先に、盛岡がニューヨーク・タイムズ紙で行われた「今年行くべき52カ所」に選ばれていることがわかった。それもロンドンに次いで2番目であるという。ほんまかいな。
52カ所という中途半端な数も気になるものの(トランプの枚数にでもかけているのだろうか)それはともかく、どうやら1月頃にはもう発表されていたらしかった。テレビ音痴新聞音痴、要はニュース音痴のぼくは、そんなことになっているとは露とも知らなかった。
どうにも胡散臭くて調べてみると、確かに米紙によるその発表は本当のことで、しっかり盛岡が入っているらしかった。
とは言っても、この2番目というのは正確には順位を意図したものではなく、単に2番目に紹介されたというのが事実らしいので、「盛岡が世界の2位」などと安直に書き込んでいるネット記事には一抹の疑問ものこるものの、しかしほぼほぼ順位ととらえてよいらしかった。
それにしてもなぜ盛岡が・・・ぼくの頭には疑問符しかわいてこなかった。
どうせ東京や京都が入っていないからだろう。最初はそうおもった。それは、たしかにその通りだった。
この52カ所のリストは、米紙が依頼した数百人のライターたちの推薦文の中から決まるらしい。
そのひとりに、クレイグ・モドさんという盛岡を選んだ方がいて、その推薦文が見事ニューヨーク・タイムズ紙の編集者のお眼鏡に叶ったというわけだ。
このクレイグ氏、以前紀伊半島についてのエッセイを書いており、それが高評価だったらしい。あのクレイグさんが推薦するなら、みたいな流れで、今回のこの盛岡騒動は起こったとかんがえられる。
つまり盛岡そのものの魅力というよりは、その方の視点と文章力、それにぶっちゃけるなら、日本の都市を選出するなら東京や大阪といった主要都市はもうメジャーでつまらないからどこかダークホースになるような場所でも選べばサプライズになるんじゃなイカ、という米紙のお情けにも似た粋なはからいがあってのことだった、とぼくはそんな風に決めつけた。こんな東北の小都市が担ぎ上げられるなんて、だれかやなにかの意図的操作が働いているにちがいない。・・・
とまあ、そんな感じでひねくれながらも、正直言えば、このニュースはすなおにうれしいものだった。
そうか、あの盛岡が2位か(すっかりぼくも世界2位で思考が固まっていた、親バカならぬ県民バカ、か)・・・そのニュースのあとから、当初ジブリ展のみしかかんがえていなかったぼくの盛岡行は、小一時間でもいいから、県民会館のちかくだけでもいいから、ちょっと散策してみようかな、という方へだんだんと動いていった。
雲は出てきたけれども、申し分のない空模様で、あるくのにはもってこいだった。
不思議なもので、ニュースを聞いたあとに目にする盛岡という街はどこか新鮮な感じがした。それ以前の、全体をただ背景としてのみパッと見てすませていた時とは打って変わって、生きた街としてぼくの目に入っていたのだった。
そんなことを感じていたら、県民会館の駐車場のちかくから黒猫が1匹歩いて来るのを見かけた。まさか野良猫ともおもえないけれども、その黒猫は平然とした出で立ちでとことこ誘導員の前を横切って行った。誘導員も別段気にする様子もない。なんというか、ぼくはその光景にこの盛岡の時間のながれみたいなものを、つまりはゆったりとしたものをふと感じるのだった。
初夏であったから、なによりもまず緑がきれいだった。
岩手県民会館のそばを流れている中津川。その川沿いにならぶ、いまはもうすっかり青々とした葉が陽の光に照られている枝垂れ桜。その静かに微風に揺れている姿は、なんだか盛岡らしかった。らしい、というのもおかしな表現だけど、つまり盛岡はいたって静かな街だった。交通量の少なさもそう感じる一因にふくまれているかもしれない。そこでは川沿いの植物たちがのびのびと日を浴びているようにぼくには見受けられるのだった。
この中津川が、またおだやかにせせらぐ川であった。
緑をたたえる河川敷に、ひとひとりが通れる道もできていた。そこをあゆむひとびとは、ぐんと伸びた緑の間を通るというわけだ。そうして川をながめながら、ふとした拍子に枝垂れ桜の緑に憩う。・・・これで飛び石でもあればなあ、とぼくはないものねだりをしながら、その中津川沿いをぶらぶらあるいた。
川沿いの小道には駐車場があり、ここでもまた誘導員のおじさんがせっせと車をさばいていた。
せっせ、とはいうものの、いかにものんびりと車を案内している。お客さんも別段急ぐ風もなさそうに車に乗っていた。ここはもしや市役所だろうか。ぼくは建物を仰いだ。てっぺんには『魔法陣グルグル』に出てきそうな魔法陣らしき印があった。うん、よくわからん。
やがて中の端という幅のある橋を渡ると、今回お目当てにしていた建物が現れた。
岩手銀行赤レンガ館は、その赤々とした地肌を青空に焼かれながら、十字路の一角で往来するひとたちを見下ろしていた。
盛岡を象徴するであろう、明治44年に建てられたその建物は、2012年に現役を終え、資料館としての役割を担って今日に至っている。
一見すれば、ヤングな現代建築たちに囲まれて肩身狭そうにもおもえたけれども、なんだか不思議とこの盛岡という街に馴染み、溶け込んでいて、そこにあるのが当たり前のように、重要文化財だからといって変な重々さをただよわせることもなくそこに建っているのだった。
あっけない、と言ってしまうと語弊がある。ただそれほどまでに、どこまでも親しみやすい姿としてそこにあった。喫茶店のようにふらっと入れる気楽さを持ち合わせている。なんだかこの建物自体が、昔と今とをうまく調和させている、とそうおもった。
このレンガひとつひとつが、現代にいながら未だに遠い明治の時代をひっそりと呼吸しているか、お前にとっての呼吸とは夢を見るようなものなのかもなあ・・・、ぼくがとってつけたようにそんなことをかんがえている隣で、どこから来たのか中学生の一団がそんな呆けているぼくをしり目にレンガ館へと入っていった。まさか修学旅行でもあるまい。大方地元学生の社会科見学だろう。ぼくは中学生なんかそっちのけで、引率の女性教師に目を奪われつつ入り口の扉をそっと開け、明治をかじりにお邪魔した。
入り口には受付があり、無料コーナーと有料コーナーとに分かれている。今回は時間を限っての散策だったので、有料は今度カメラ好きの親父を連れてきたときにでも、とぼくは無料の方を選んだ。
なによりも目を引いたのは、開放感たっぷりの多目的ホールだった。
吹き抜けとなっているその広間を眺めていると、まがいなりにも、こんな感じで当時の銀行員は働いていたのだろうか、と勝手に想像を始めてしまうのだった。
明治の頃には、この様式はさも当たり前の気持でみんな働いていただろうか。それが昭和も後半になるにつれ、銀行員の中にも歴史ある建物で働いているという意識が芽生えていったにちがいない。それは、誇らしくもあり、また、仕事でありながらうきうきしてしまうことではないだろうか。・・・なんだか自分から能動的に、というよりも、この建物内にいると自然と想像をふくらませてしまっていた。こんな吹き抜けの広間で働いていたらどんなにか心地よいのだろう。
ぼくはその高い天井、窓から差し込む光を受けて空気をたっぷりと吸い込んだ潤いさえ感じさせる空間を内包しているそんな天井を眺めるうちに、いつの間にか米米CLUBの『Child's days memory』を脳内再生させていた。
「あの日 空が高く感じた」・・・その部分の歌詞を繰り返し口の中で口ずさんでいた。一度たりとも触れたことのない、触れることのもうない明治の時代を、錯覚とは知りながら、なぜか急に幼い頃にそこにいたかのように懐かしいものとしてとらえていた。それはこの曲が流れていた『ポンキッキーズ』という番組での映像も影響しているのかもしれない。その映像は子どもたちと共に古い木造校舎を描き出していた。その木造校舎と赤レンガ館が、天井の高さという印象によって、ふと重なって懐かしさを感じたのかもしれない。
知りもしない時代を懐かしむなんてのは、大人によくあるまさに錯覚だった。初めて入った建物なのに。錯覚というなら、赤レンガ館が現代の街角に建っていること自体がひとつの錯覚なのかもしれない。周りはみんな明治も大正も知らない建物ばかりで、そんな中に平然とたたずむ或るひとつのまぼろし、蜃気楼閣。・・・
そんな風に盛岡をとらえてみると、途端にこの街が不思議な魅力、目に見えるおだやかさの中に幻影を忍び込ませて悠然と日常を送っている或る種のエキゾチックさに包まれているような気もしてきて、なんというか、ぼくは胸に沸いたこの懐かしさを、錯覚云々など置いといてすなおに懐かしいものとして受け入れていた。
無料であるにもかかわらず2階も上がることができた。
無料でここまでやるのか。これじゃあ有料の立場がなくなるんじゃないのか。経営の心配はともかく、ぼくは赤レンガ館の太っ腹に甘えることにして、ギシギシ軋む階段を注意深く登りながら2階に上がった。おかげで回廊を間近に見学もでき、広い1階も見下ろすことができた。
2階にも小さな多目的ホールがあったけれども、そこでは中学生のグループがなにやらきゃぴきゃぴし合いながら熱心に写真を撮ろうとしていた。思い出作りであろう。思い出みたいな建物で思い出を作りたくなるのは、中学生ならよくあることだ。じっくりするのは次回にお預けとして、ぼくは彼らの心霊写真にならないように足早に通り過ぎた。そっと静かに・・・が、どうだこれがジェントルオトナの対応だ、というぼくのこころを見透かしてか、相変わらず階段が軋むので、おもったようには格好がつかなかった。人間、柄にもないことをするものじゃない。
そんな反省も踏まえつつ、ぼくはこの岩手銀行赤レンガ館を後にした。出口は中津川に面していて、青空と緑と微風が出迎えてくれた。
そのあとは、来るとき通った中の橋を折り返し、盛岡城跡公園へと足を延ばした。
公園そば、中津川沿いの道路にはバスが何台も停まっており、中学生たちがひっきりなしに乗り降りしていた。先ほどの彼らもきっとこのバスに乗ってきたのだろう。
ぼくは通り過ぎる程度に公園内を散策することにした。
相も変わらず、盛岡市は人が少ない。そのおかげで、公園そのものを眺めることができるというか、じっくりと公園そのものにいる実感を味わうことができた。
みどり花壇というところまで、陽の光がさんさんと降り注ぐ道をゆくと、芝生広場から木陰のしっとり広がる風景となる。ぼくはそんな木陰からも木々の緑を感じながら、清らかな水をたたえる鶴ヶ池に顔を近づけたり、苔むした石垣を遠くから見上げた。
盛岡もいいところだな、とおだやかな心境でおもえたのは、このときだっただろうか。
川を眺め、赤レンガ館に触れ、そうしてこのゆるやかでしずかな公園をあるいていると、確かに行ってみたい都市であると、じわじわというのか、そんな風におもえてくるのだった。
ここには大都市にあるような大満足の商業施設、娯楽施設なんてものはトンとないけれども、そこは小都市、小満足できればそれでいいわけだし、盛岡はそれがちょうどよかった。お土産やバえる建物がずらりと並ぶ、つまりは財布の紐が緩むといった豊かさのかわりに、ここには手ぶらで来たって憩えるものに囲まれ、満ちていた。入力の豊かさ、ではなく想像が出力される豊かさ、みたいなものか。
前述したように、盛岡を行くべき都市として推薦してくれたのは外国の記者であった。
ぼくはそこに、堀辰雄という作家が書いたことばを思い起こしていた。
ひとのあまり知らないような山奥から不思議に日本離れした風景を探し出してくる、と堀は外国人のその目について語っていて、大分都合よく解釈すれば、堀の愛した軽井沢(今の軽井沢とは様変わりしたそうだが)もまた、外国人の発見によるものだった。
つまりは、日本人が、そこに住んでいるひとが、意識しようともせずにいた風景を、遠い異国の旅人が息を吹きかけるようにして見つけ出す。異国の呼吸が、その土地に新しい魅力を与えてゆく。
盛岡もそのようにして見出された都市なのだった。日本人だけでは決してこんなに注目されることにはならなかった。そこに別の視点をもったひとがいるからこそ、新鮮な風が入り込んだのだ。
ただ同時に、直近では観光客が増えるとして、数年後には何事もなかったかのようにまた一地方の小都市として静まり返っているのもいいなあ・・・、ぼくは公園内から毘沙門橋を通ってホットライン肴町のアーケード街をあるきながら、そんな願望も抱いた。まあ、盛岡がこれからうなぎ上りの観光都市になることは、お世辞にもないとしても、ぼくにとっては、このくらいのひと、建物、自然の割合が心地よかった。この街には、旅人が知らない間に来て、そうしてまた、知らないうちに去っている、そのくらいがいいようにおもえた。旅人が勝手に良い悪いを判断する物差しに、盛岡住民が巻き込まれる必要などないのだから。
そうか、ちょうどいい、というのがこの街の居心地のよさなのか、とようやっとのことで気づいた。・・・
ぐるりと岩手県民会館に戻ってくる頃にはいい時間になっていた。
この建物も、40年後、50年後には、平成、令和という遠き日に過ぎ去った頃の名残をとどめる建造物として、歴史に加わっているのかもしれない。そんなことをかんがえながらぼくは車に乗り込んだ。