STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

10年前、10年後

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 聞こえが良くなるように言うなら、10年前の忘れ物をとりに行ってきた、というような表現になるのだろうか。むしろ本音に即して言うのなら、10年前の借りを返したい、果たせなかったおもいを今度こそは晴らしたい・・・、そんな風に、拭い切れない未練が顔をのぞかせる表現になるのかもしれない。
 
 『たまこまーけっと』という作品がある。
 京都アニメーションが制作したテレビアニメで、2013年に放映された。
 その後2014年には、続編となる『たまこラブストーリー』が劇場で公開された。
 アニメとしては(多分)珍しく、マンガや小説を原作に持たない製作者側のオリジナル作品になっている。原作なんてなくったってストーリーもキャラクターも製作者側の丁寧な作りこみを感じられて、実に魅力的な作品となっている。
 そんな作品が、2023年、テレビ放送から10周年となるに合わせて記念イベントを企画中、という情報を知ったのは、やっぱりこの作品をずっと気にしていたからだった。
 知った、というよりも探していた、と言った方が正しい。
 何周年企画とやらは、アニメに限らずいたるところで催されるのだから、『たまこちゃん』だって(ぼくはどうもこのアニメをこう呼びたくなる)きっとなにかあるんじゃないか、と厚かましくも期待していたわけだ。
 キャラクターデザインを手がけた堀口悠紀子さん描き下ろしのイラストがみずみずしい十周年の特設サイトもオープンし、随時グッズ情報も発表していくようだった。
 そうしてその中で、テレビシリーズと映画を劇場公開することがわかった。
 と言っても、場所は日本の首都東京だ。
 ほかにも埼玉や名古屋、大阪、さらにはアニメの舞台となった京都は出町柳の映画館でも再上映するらしいけれども、どこも岩手にいるぼくからしたら遠かった。
 もちろん東京や埼玉は行けない距離じゃない。ただ、時間とお金をかけて出掛けることを天秤にかけたとき、ここは引いてもいいだろうという冷静な気持になる自分がいた。
 まあ、公開当時は特典欲しさに何度も劇場に足を運んで観たわけだし、今回はグッズ情報が出るまで待っていればいい。このイベントは近辺の人たちのためのものだ。その人たちにゆだねよう。・・・正直、イベントよりもグッズを重視していたぼくは、そんなわけでその再上映の情報を流し読むだけだった。
 
 キャストトーク付の特別上映があることを知ったのは、その再上映の情報を改めてながめているときだった。
 バカな話だけど、ぼくは再上映ばかりに目がいってちっとも気づいていなかった。我ながらやれやれだ。
 主演を務めた洲崎綾さん、田丸篤志さん、山崎たくみさん、そのお三方が登壇し、10周年を迎えたこの作品に思いを馳せるそのお知らせは、もしかすればイベント慣れした人たちには当たり前の企画かもしれないものの、ぼくにはそんなことがあるのかという驚きの方が強かった。
 驚き、というのか、戸惑いと言うべきだろうか。
 主演の方々が10周年のお祝いとして登壇する───この、一見すればだれもがよろこびやうれしさを感じるであろう内容を読んだとき、ぼくはそんなよろこびのまえに、むしろ身構えたくなるような、なんだかフクザツな心持になっていた気がする。変な話、すなおによろこべないひねくれた気持があった。
 或いはこの特別上映に、悔しさを感じたひともいるとおもう。
 住んでいる場所や仕事の関係で、行きたくても行けないひとがいる。せっかくのイベントだけども仕方なくあきらめる。そんな経験をしたひともいるのだろう。
 ぼくが感じたおもいは、それと似ているとも言えるし、ちがうとも言えるかもしれない。どっちなんだ、とツッコみを入れられそうなどっちつかずなおもいだ。
 なんというか、ぼくはその情報に触れながら、同時に10年前のことを投影していたから、すなおによろこべなかったのだった。
 人間、引きずるときは、気にしていない風でやっぱりどこまでも引きずってしまうものらしい、とぼくは自分に苦笑した。・・・
 
 正確には9年前。2014年のこと。
 当時ぼくはまだ東京暮らしを続けていて、気さくに話せる友人もでき、東京の物量にやられながら(ひどいときは週4くらいで中野ブロードウェイに行きフィギュアとにらめっこしていたのだから恐ろしい)それなりにエンジョイしていた。数年東京にいて、表面的にはすっかり都会人になっていたものの、元は田舎出のお上りさん、なにかにつけてのぼせ上がり、ことあるごとにわっしょいしていた。
 『たまこまーけっと』に興味を持ち始めたのは、映画公開の2ヶ月くらい前だった気がする。
 ぼくは『けいおん!』という作品を知っていたので、監督つながりで『たまこまーけっと』もテレビでやっている、くらいのことは気づいていた。
 ただ、失礼ながら『けいおん!』は女の子ばかりが出てくる、リンカーン風に言うなら女の子の女の子による女の子のためのアニメであり、男の自分としては見てるだけでこっちが恥ずかしくなってくるどうにもいたたまれない作品だった。しかし何気に『けいおん!』のフィギュアは買っていたのだから矛盾しかない。
 これも恥ずかしい話だけど、ぼくは基本アニメにラブを求めていた。
 女の子が出るなら、男の子も出てきて、ラブしてほしい。なのでどちらかが偏って登場する作品は苦手だった。物語はボーイミーツガールに尽きる。なんだかんだで古風な男だ。
 『けいおん!』がそういった作品なのだから、きっと『たまこまーけっと』とやらもそうにちがいない───、ぼくは先入観と偏見とで、結局リアルタイムで見ることはなかった。
 そんな折、アニメージュで『けいおん!』5周年の表紙を見つけ、おもわず買ったのだった。そこで『たまこちゃん』が続編をやることを知った。
 そのタイトルが『たまこラブストーリー』だったので、ぼくは『けいおん!』の5周年そっちのけでそちらに興味を奪われた。ラブストーリー・・・おいおい、しっかりラブが入っているじゃなイカ
 確かに『たまこちゃん』に主人公の幼馴染として男の子が出てくることはかじる程度に知っていた。
 ただ作品の内容を調べた際、ヒロインに恋心を抱きつつもなんといういうこともないままほのぼのと日常系らしく終わるみたいで、なあんだ、という期待外れとともに忘れていた。
 あの少年が(大路もち蔵くん)映画では活躍するのか。ラブがあるなら、一見してもいいかもしれない、とぼくは作品への偏見を改め、映画の予告編とともに、今更ながらテレビシリーズを見始めたのだった。
 そうして、映画公開があと1ヵ月ほどになるころには、ぼくはすっかりこの作品が好きになり、公開日を待ちわびていた。ラブひとつで作品の見方が変わるのだから、ゲンキンな奴と言われれば返すことばもない。
 ぼくにとってこの作品には、そんないきさつがあった。
 当然のことながら『たまこラブストーリー』公開時にも初日舞台挨拶としてキャストトーク付の上映回があった。
 今までそんなイベントに参加したことのなかったぼくは、せっかく東京にいるチャンスを利用して監督をはじめ主要キャストの方々に会いに行こうとかんがえた。もうすっかり劇場内でおしゃべりする登壇者を空想しながら、期待に胸を膨らませたぼくは座席指定の日を今か今かと待っていた。というか舞い上がっていた。お調子者らしく、ここでもすっかりわっしょいしていたのだった。・・・
 今、久々に公式サイトを閲覧してみると、映画の公開は4月26日土曜日。ぼくが狙っていた新宿ピカデリーでの初日舞台挨拶は14時35分回の上映後と17時10分回の上映前となっている。当時のぼくがどちらを選ぼうとしていたのか、今ではもうすっかり忘れてしまっている。
 チケットの受付はオンライン上で、12日の零時からだった。今だったら深夜に起きているだけでも億劫になってしまったけど、多分当時のぼくは我先に購入しようとパソコンの前で居座りながら、ひとりきりの部屋で、お前らなんかに遅れはとらないぞ、と勝手に競争相手を作ってはイキがっていた。
 零時と同時に、ぼくはテーマパークで入園ダッシュにいのちをかけるお客みたいに前のめりで座席指定に挑んだ。
 以外に遅れることなく座席を指定できた気がする。自分で自分を急き立てながら決済画面に進んだことは、なんだか雰囲気として覚えている。ここまでくれば支払いのみだ。劇場内で主演者の陽気なトークに聞き惚れる自分が目に浮かんだ。
 その決済画面で、ぼくは面食らったのだった。
 決済はクレジットカードのみ。
 そんなものもっていなかったぼくは文字通り固まっていた。何度案内の文面を見直してもそうとしか書いていなかった。
 試しに支払おうとしても、そこにはカード番号を打ち込む欄しかなかった。
 他の方法は載っていない。ない情報は打ち込めない。打ち込めなければ次には進めない。
 しばらくは、意地にまかせて粘っていたとおもう。
 が、やがてぼくは画面右上のバツ印を押すと、電源も切ってあとはもう呆然としていた。こういうとき、去来するおもいというのは怒りとか悲しみではなく、なんというのか、本当に無感情な、空虚みたいな、ただただぽっかりとした形になるだけだった。
 今となってはただの笑い話だけど、あの意気込みはどこへやら、ぼくはバカみたいにしぼんでいた。
 ああ、おれって田舎者だなあ、とカードを作っていなかった言い訳を田舎の所為にしながら後悔がじわじわとやってくるのだった。なんとなくイメージだけでカードなんか作らん、とうっちゃっていた因果がこんなところで響いてくるなんておもいもしなかった。
 なんでクレジットカードだけなのか、コンビニ払いとかじゃダメなのか、と文句がたらたら浮かんできたものの、事前に調べていなかった自分が結局は悪いのだった。不条理でも不平等でもなんでもない。自分の詰めの甘さだった。まあ、この場合は慌ててカードを申請してたとしても期日までに間に合うことはなかっただろう。
 今頃チケット購入したひとたちは、一安心しながら当日まで胸を弾ませているのだろう、きっとおれがついさっきまで押さえていた席も、もうだれかがさっさと選択して、そうして完売御礼となっているにちがいない・・・、とぼんやりかんがえたりした。残席ある場合は後日映画館の窓口で、と記載はされていたけれど、そんなのあるはずがなかった。
 そんなこんなで、ぼくは舞台挨拶に行くことはできなかった。
 
 そういった10年前の記憶が、今回の10周年のイベントにつられて顔を出したのだった。
 もうすっかり過去の一出来事として片付けていたつもりだったのに、いざ掘り返してみると未だにわだかまりをかかえているもんだから、自分の執着心とやらに半ば呆れつつも、バカな話、どこかいとおしくもあった。歳をとった現在の自分が、あきらめをつけられずにまだこころの中で生きているいる当時の自分をなだめているような感覚だろうか。一抹の悔しさであっても、存外消えてはいかないものだ。
 あの後ぼくは初日公開日の、別の時間帯を予約して観に行った。意地というかヤケというか、せめて初日に足を運んでなんらかの自己満足を達成したかった当時のおもいもよみがえってきた。おれだって初日舞台挨拶に行きたかったんだぞ、とだれに対してのなんのアピールになるのか知らないことに執着していた。とにかくせめて初日に観たという大枠だけでも共有しておきたいという往生際の悪いことをしていたのだった。
 ぼくが映画を観終えてピカデリーを出るころ、楽しそうにはしゃぎ合いながら入れ替わりで館内に入ってゆくひとたちを見かけた。きっとこれから舞台挨拶付のチケットでもって生の演者に出会うというわけか、ヒマな奴らだなあ・・・、選ばれたひとたちへのねたみそねみも、もちろん記憶に絡んでいる。
 どのくらいこの失敗を引きずっているかというと、後日発売された円盤にて、特典映像としてその初日舞台挨拶の模様が収録されているにも関わらずぼくは未だに見たことがない。
 ふつうなら、観に行けなかったひとにとってはラッキーでしかない特典に、ぼくは苦々しいおもいしか抱けなかった。本当だったら、おれはその場にいたのになあ、と何度女々しくネチネチ反芻したことか。
 そんな男に、こうしてまたチャンスがやってきたのは、果たしてどういう風の吹き回しであるのだろう。また何者かにからかわれている気分になってそれがなんだかおかしい気もした。
 正直、キャストトークを知っても行くことはかんがえていなかった。
 いろいろと思い出はあふれてきたけれども、そこはやっぱり、所詮10年前のこと、過去の自分をそこそこ客観視できる余裕はついていた。過去は過去、今は今であって、やり直すためにだったり未練を拭い去るためだったり、要は過去を結びつけて行く行かないを決めるのはおかしいとおもったのだった。なんだかんだ、もう終わったことだ、行って観たところで過去が変わるわけじゃない。それに今は東京に暮らしていないし、仕事だって忙しいじゃないか・・・。
 単純に今と昔とで作品への思い入れの差もあるし、旅費のこともある。ぼくは土日祝日が休みなわけじゃないからわざわざ休みを申請しないといけない。それは手間だった。行動するしないの判断は常に現状を踏まえた方がいい。自分はこの10周年になにかがあったということを、対岸の火事のようにながめていればいいんじゃないか・・・そんなことを自分に言い聞かせていた。
 
 2、3日はそれで遠ざけていたとおもう。
 風向きが変わったのは休日の予定を知ってからだったか。
 会社が6月の予定表を出した際に、ぼくはやっぱり気になって自分の休みが何日かを確認していた。仮に、例えば、もしも6月4日が休みだったら、とおもいながらのぞき込むと、なんと休みになっていた。偶然か必然か自然なのか。ともかく希望休申請の手間は省けた。
 行け、ということなのか? ぼくは急に自分がチケットを予約したり新幹線に乗ったり、会場に座っている場面を想像し出していた。自分のこころの内がこの現実をおれに示している、そんなことさえかんがえた。
 チケットの申し込み受付はすでに5月の8日から始まっており16日迄となっていた。そこで申し込んだひとの中から抽選で決まる。そういう流れだった。
 まだ間に合うときだった。
 抽選はともかく、道は開かれていた。あとは自分次第であった。
 行動力のあるひとなら、かんがえる前に動いているのだろうか、とぼくはおもいながら、相変わらずウジウジしていた。行くなら日帰りだから家に着くのが遅くなるなあ、とか、ここで新幹線代は手痛い出費だなあ、など、そんな弱腰を浮かべてはなぜか行けない理由を探していた。
 どうして目の前に道があるのに選ばないのか。調布には勢いで行ってあれだけ待ち望んでいた『On Your Mark』と『耳をすませば』の28年ぶりの再上映を観てきたじゃないか。
 そう自分に言い聞かせたのは、ようやく次の日になってからだった気がする。
 結局自分はなににそんなに固着しているのか。もっと単純に、お祝いのつもりで、自分が楽しむつもりで、観に行けばいいじゃないか、だって行けるんだから、と当たり前のことに今更立ち返ったのだから、我ながら世話の焼ける男だった。ケツに火が着かないとやる気になれない男はこれが困る。
 とにかくぼくはすなおに、せっかくのチャンスを活かさなきゃ損だ、10年前はダメだったけど今度こそはつかんでみよう、とバカに開き直って、それからはホイホイ早かった。一気に受付をすませ、抽選結果は19日なのにすでに新幹線の予約にも手をつけていた。子供じみた意地や見栄やねたみそねみで一生に一度を手放すなんてもってのほかだった。
 ちょうどぼくはユーミンの『守ってあげたい』を聴いていた。
   「もう一度あんな気持で/夢をつかまえてね」
 まったくその通りだ。こんなときユーミンはへこたれた男を励ましてくれる。ぼくは勝手に国民的歌手の後押しを受けていると自分に言い聞かせながら、こうなりゃヤケのやんぱちだと意味の分からない意気込みで自分を鼓舞していた。
 
 ユーミンが効いたのか、やんぱちが男を見せたのか。
 抽選結果は当選だった。
 ぼくはまだまだ戸惑いながらも、まずは一安心と安堵に浸っていた。まあ、制作側には申し訳ないが、抽選の段階ではまだ席があったので、受付したひと全員が当選だったのだろう。落ちたひとがいないのは、それはそれで良いことだ。
 お前の気持も連れて行くよ・・・、ぼくは自然と、10年間も居座ったままのあきらめのつかない自分にも言い聞かせていた。もうこじらせるのはやめにして、ただすなおに、形や出演者は違えどもあのとき果たせなかったおもいを晴らそう体験しよう、と自分の本音を受け入れていた。
 もしかしたら、本当にこれは10年間堪え続けた自分の気持が作り出したチャンスなのかもしれないのだから。・・・
 

 

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 6月4日の早朝は、山の向こうにむくむくとわいた雲に陽の光が焼き付いていていた。
 いよいよ本日は『たまこちゃん』だ。
 この日は地域の川掃除のため、朝五時から支度をして川に向かった。田舎によくある総出の環境整備というやつだ。
 年配層に囲まれ、方言で会話しながら掃除した。やがて朝日が顔を出し、さっぱりとした汗をかく。こんなド田舎から数時間後には東京に行くのだからなんとも不思議な気分だった。日本は兎角にアメージングな国である。
 
 一ノ関駅に着いたのは11時半ころだった。
 ぼくは最寄りのローソンでお昼を買った。からあげクンのわさびマヨネーズ味を頼んだ。
 駅の改札を通り、新幹線に乗車した。お客さんはちらほら見かける。みんな休日を利用して出掛けているのだろうか。
 ぼくは指定の座席を見つけて先にカバンを置いた。
 するとカバンの中がからあげの匂いが漂ってくる・・・今後ジューシーなものは車内で控えることにしよう。ぼくはまたひとつ学びながら、席につくと早々にからあげクンを頬張った。ファブリーズでも持ってくりゃよかったか。
 ともあれ、ぼくは新幹線に揺られながらお昼をとった。
 一ノ関から二駅を経て仙台へと着く。
 この仙台で乗り換えた。次に来るハヤブサというやつに乗れば仙台の次が大宮なので、福島や栃木には悪いが停車駅がすくなくてすむ。新幹線の特急みたいな形態だった。
 風は多少強かったけれども天気は良かった。
 車窓からそんなことを感じながら、ぼくは行き着く先に待っているものに段々と期待をふくらませていた。
 なんだか新幹線が10年前へと連れて行ってくれているような、そんな不思議な感覚もあった。
 
 約4ヵ月ぶりの東京駅はやっぱり混んでいた。というか混み混みだった。
 日曜のお昼であることも関係あるのだろうけども、まあここは毎日が祝日みたいなところだ。お祭りが駅の形をしていると言ってもいい。幸いにもぼくの荷物は少ないので、人込みを過度に気にすることなく歩けた。
 しかし、相も変わらずどこをどう行けばどこに着くのか見当がつかなかった。
 これが日本一の迷宮か。いや、そこは渋谷といい勝負だった。試みにぼくは東京駅のアプリをダウンロードしていたものの、自分が今どこにいるのか、ちんぷんかんぷんであった。こんな迷宮、30年東京に住んでいるひとだって庭にできたためしはないだろう。仮にいたらそれはそれで恐ろしい。ここでは入店やレジで並ぶのは当たり前だった。やれやれ、東京駅は一体どれだけのお客をはべらせれば気が済むのか。
 結局ぼくはアナログよろしく、駅の柱に掛かっている案内図を見ながら目的のお店を探した。『たまこちゃん』開始まではまだ1時間弱ある。その間にお土産のひとつでも買おうとおもっていた。
 おのれは魔法陣でも描く気か、というくらいぐるぐる歩いた。
 ようやっと発見したお店はヒトツブカンロという名前だった。
 ここのグミッツェルというややこしい発音のお菓子がどうも今人気らしく、洋菓子好きの姪っ子に買って来いと頼まれていたのであった。お前さん、どこでそんなこじゃれたお菓子を覚えてくるの。
 ともあれ、ぼくはお店に足を運ぼうとした。
 が、よく見ると店頭のメニュー表にはしっかりグミッツェルのところに「SOLD OUT」のテープが張られていた。どうもこのお菓子、あまりの人気ぶりに整理券配布だのなんだのがなされていて、ひとりあたりの個数も決まっているらしかった。要は近場のひとか気合を入れて早めにくるひとくらいしか買えないということか。おいおい、言っちゃあ悪いがグミだぞ。とぼくは呆れながら早々にお店を立ち去った。まあ、おこちゃまの口にはまけんグミで充分だろ。グミはそれで手を打った。
 それからぼくは駅内のポケモンストアに行ってみた。
 いままでは通り過ぎるだけだったけれども、今年の3月でサトシとピカチュウコンビのテレビ放映が終了したのを機に、ぼくのこころの中では在りし日のポケモン関連の思い出があれこれよみがえってきて、気づけば当時のアニメやゲームに触れていた。再燃したというやつだ。
 例にもれずここもごった返していた。だれかが「ポケモンってこんなに人気なの」と人波にもまれながら愚痴っていたけど、いやいやお客さん、見りゃわかるでしょ。老若男女問わず、いや国籍も関係なくそこにはさまざまなひとがいた。もう黄色と言ったらピカチュウで通る勢いだ。ぼくは店内をぐるりと回りつつ(むしろそうしないとレジ待ちの列に並べなかった)お土産にピカチュウのクッキー缶を選んで会計をすませた。
 ぼくは時間を気にしながらどんぐり共和国にも足を運んだ。
 するとちょうど『耳をすませば』が店頭のモニターで映っていた。それもまさに雫ちゃんと聖司くんのセッションが始まろうとしているシーンだった。ヴァイオリンのチューニングの後で、聖司くんが照れくささを隠すようにぶっきらぼうに雫ちゃんに歌うよううながす。そうして『カントリー・ロード』の前奏が始まり、雫ちゃんが戸惑いながらも自分の書いた歌詞で歌い始める・・・、4ヵ月前に劇場で観たラブな作品が、ラブな映画を観る日に流れているのだからぼくは勝手にきょうという日に御縁を感じていた。自然とこころの中があたたかくなって良い心地だった。
 東京駅でのぶらぶらはざっとこんなものだっただろうか。
 『カントリー・ロード』のセッションを見届けたぼくは、時計を確認してようやく本題の『たまこちゃん』へ向かうために中央線のホームを目指した。
 
 新宿ピカデリーには15時半ごろに着いた。16時開始なのでちょうどいい時間だった。
 おもえば、最後にピカデリーで映画を観たのなんて、何年前になるだろうか。
 山盛りポップコーンでにぎわうひとたちをぼんやりながめながら、ぼくはふとかんがえていた。
 こんな心境になると、また東京という街にほのかな懐かしさを覚える。この映画を観た、この場所で写真を撮った、と目の前の現在よりも頭の中に眠っていた記憶にばかり目が向いて、おれって東京にいないんだなあと、改めて感じるのだった。
 おそらく最後に観たのは『思い出のマーニー』だった気がする。となると『たまこちゃん』とおなじ年だ。もう9年前にもなる。・・・おもわず「もう」と感じてしまった。すっかり遠ざかっていたとぼくはなんだか苦笑がもれた。
 『たまこちゃん』を初めて観たのも、それから初日舞台挨拶を逃したのも、本日また観るのもこの映画館である。ぼくは妙な心境になり、とりあえずお世話になります、と新宿ピカデリーに挨拶をしておいた。ぼくは9年間で大分おじさんに足を突っ込んだけど、ピカデリーは変わらず、むしろ都心の新陳代謝に合わせるように古びるどころか、より若々しくなった印象を与えていた。
 それはともかく、15時40分に開場が始まると、待ちわびていたお客さんが次々と入場していった。
 ぼくは一介のファンでしかないけど、10年経っても変わらずこの作品を好きでいてくれているほかの同志たちに(もちろん、いろいろの縁を結んできょう初めて観るひともいるだろう)なんだか感謝の念がわいてきてひとりで勝手にしみじみとしていた。
 今回のこの特別上映に入場特典はない。
 いや、確かにトークショーが特典ではあるものの、通常の映画のような、あれがついてこれがランダムで、といった配布物はなかった。でもそれがよかった。映画は映画そのものがあればそれでいいのだ。なにより、映画館でまた『たまこラブストーリー』を観られるこのよろこびと、キャストトークが聴けるうれしさでもう幸福感に包まれていた。
 ああ、今から映画を観るんだなあ、とぼくは何度もかみしめ味わいながら座席に向かっていった。Nの4番。そこがぼくの抽選された座席であった。
 
                 ⁂
 
 帰りの新幹線は19時40分発、盛岡行のハヤブサだった。東京にいたのは実質5時間半ほどだったのだろうか。
 新幹線が東京駅を発って間もなく、通路を挟んでひとつ前の席に座っていたサラリーマンのおじさんが駅弁を取り出すのを目の端でとらえた。
 何気なく眺めていると、そのおじさんはスマホで駅弁の写真を撮っていた。ほほう、なかなかおしゃれなことをしますな、奥さんにでも送るのですかな、とおもっていると、そのスマホが鳴りおじさんはフタを開けたばかりの駅弁をのこして慌ててデッキに姿を消した。電話のために席を離れるサラリーマンをこれまでに何人見てきたことだろう。サラリーマンは大変だなあ、とぼくはありきたりなことを頭に浮かべた。
 ふと窓に目を向けるとまん丸お月さまが都心の上空に浮かんでいた。
 新幹線の車窓から見るのはこれが初めてかもしれない。そもそも、夜の新幹線に乗るのも果たして何年振りになるのか、すぐには算段できないほどそれはもう忘れてしまっていることだった。
 ヨドバシカメラそびえる秋葉原のネオン街を見られたことだけでも充分うれしかったけれども、ぼくは突然夜景の中に現れた満月に気づけば身を乗り出して見入っていた。満月なんて、東京時代に何度も見ているはずなのに、やっぱりきれいであったし新鮮だった。
 ぼくはイヤホンをつけてから『ニャースのうた』を流した。満月にこれほどうってつけの曲もそうないだろう。社内には会話をするお客さんもなくただただ走る音がするだけの静かな空間だった。哲学するにはもってこいかもしれない。
 「ひろいひろいうちゅうのどこかに/もうひとりのおいらがいるのニャー」・・・ぼくは本日、この広大な宇宙のどこかにまだもろもろの感情を引きずっては感傷に浸っている、10年前のひねくれてしまったもうひとりの自分を感じながら『たまこラブストーリー』を、さらにはその後のトークショーを観ていた。同時に、そんな自分と座席を共有しながら観ることも試みようと努めていた。まったくの自己満足であるけど、なんというか無念を晴らすおもいがはたらいたのだった。
 何度も観た、とはいうものの、映画館での鑑賞自体は9年ぶりであるのだから、やはりスクリーンの迫力は一味も二味もちがってすっかり見入っていた。やっぱり音の響きがいいなあ、と素人丸出しなことをかんがえたりした。藤原啓治さんの声が特にこころにしみた。
 そうして、ぼくにとって初めての、鑑賞後のトークショーを体験してきた。
 主演の3人がスクリーン前で作品を振り返りながらわいわい話し合う姿に、ぼくはほっこりとした気分をいただいていた。10年前に来られなかった場所に、10年後、同じ場所で、今度はこうして観客のひとりとして聴き入っている姿は、どこかおかしな気持もあり、ぼくは出演者のいちいちのトークに笑みをこぼしつつ、自分のそんな気持にも笑ってしまいそうだった。
 それはとても楽しかったからだとおもう。
 なんというのだろう、ようやく過去の出来事を許せることができた、というやつか。自分でもおどろきというか、呆れるくらいにわだかまった感情を抱くことなく、次々に展開してゆくトークショーを、その空気感を楽しむことができた。意地を張る必要がもうなかったからかもしれない。そもそも、なにに対して意地を張っていたのか、そんなことがどーでもよくなるほど、ぼくは会場にあふれるあたたかさを感じて、拍手を送ったり笑ったりした。
 とてもうれしかった。ようやくすなおに楽しめた。・・・
 こうしてどんどんと東京から、きょうあったあらゆることから離れて行く新幹線の中で、それでも今だけは先ほどのトークショーを隅々までおもい出せた。まあ、正確にはおもい出そうと試みていただけかもしれない。もうすでにあれやらこれやら、話したことの内容が頭からこぼれ落ちてしまっていることに一抹のはかなさを感じ出している自分に気づいて、そんな自分にやれやれと苦笑いしながら、ぼくは満月が顔を出す帰りの車窓をながめていた。
 ふと物音がした。どうやら、デッキで電話をしていたおじさんが戻ってきたようだ。これからようやく夕飯なのだろう。
 ぼくも駅で買っておいたおにぎりを取り出して食べ始めた。