STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

夏を録る

 当初の予定では、寺田倉庫で開催されている『金曜ロードショージブリ展』に行く気で、ぼくは8月に偶然取れた連休を利用しようとしていた。
 
 しかしジブリというやつはカンタンにはいかないものだ。
 ぼくは当日券があるものだと当然のようにおもっていた。
 ただ、旅行の3日くらいまえになんとなくイヤな予感がして(ぼくの手違いが原因だけど、以前ジブリ美術館に行く際何度も勘違いしては計画をオジャンにしたことがあった)公式サイトを調べてみると、ほらやっぱり、当日券などありゃしない。予約しないと入れなかった。
 もちろん当日券の販売についても記載はあった。
 ただそれは予約が埋まらなかった場合のみで、ジブリに限って埋まらないなんてことなどあるはずもない。埋もれるのはいつだってこっちの予定だ。
 チキショウ、またやられた、ジブりやがって、とぼくは自分のポカの原因を全部ジブリに丸投げしながら予定の空いたカレンダーをポケーっと眺めていた。
 とりあえずジブリといったら予約が必須であることは勉強した。情報に乗り遅れる者に勝ち目はない。人間、痛い目を味わえば嫌でも憶えるものだ。
 それにしてもジブリさん、ぼくの所為ですごめんなさい。
 
 それはそうと、狙っていた展示が頓挫した以上、東京になにしに行けばいいのだろう。
 まさか今更新幹線も宿もキャンセルする気はなかった。今だとキャンセル料だって発生する。そもそも東京に行くチャンスをみすみすリリースするなんてそんなもったいないことはできなかった。
 なにかしら美術館でも回るか、と調べてみたけれども、行けなかったジブリの企画と比較しては絶対に惜しむことだろうなあ、と決めかねた。それは別の美術館に失礼だ。
 そんなわけで、ぼくはこれといった代替案も浮かばないまま旅行当日を迎えたのだった。
 
 8月12日。晴。
 ぼくは友人へのお土産を確認した後、例によって一ノ関駅から新幹線に乗り込み車窓の風景をぼんやり眺めていた。
 目的地が決まらない状態で行くのは、案外これまでの旅で、少なくとも東京旅行では初めてのことだったかもしれない。
 ともあれ、7時42分に乗ったこともあり、ぼくは車内で朝食をとった。
 セブンで購入したシャケのおにぎりとたまごサンド、それに最近になり復活したバナナジュース。またこのバナジューが店頭に出たのはありがたかった。
 自分がおにぎりを頬張る中、通路を挟んで一個前の席に座っているおねいさんも朝食をとろうしているのが目に入った。
 カバンから取り出したのはフルーツサンドだった。
 おいおい、朝一からそんなホイップ満点のサンドにいくのか、というぼくの心配もよそに、彼女は平然ともぐもぐタイムに勤しんでいた。女子力パねぇ。おれには朝からそんな甘いものを食う勇気はねえよ。さっちゃんじゃないけどきっと半分も食えないだろう。・・・ぼくは日本の女性が持つ胃袋の底力に脱帽し、おとなしくたまごサンドをぴよぴよ食べた。男の胃袋なぞ、底が知れている。
 お仕事ガンバッてください。・・・ぼくはこころの中でエールを送った。
 
 程なく仙台駅ではやぶさに乗り換えた。
 これで次は大宮駅。1時間以上新幹線は止まらない。
 しばらくは読書したり居眠りしたりで車内を過ごした。
 やがて大宮駅も過ぎ、新幹線が上野駅に差し掛かった頃、ようやっとぼくはきょう一日どこへ行こうか、本題の思案を始めていた。
 実を言うとひとつ候補地はあった。
 その場所が横浜だった。
 以前から、ぼくは夏になったら軽井沢か横浜をもう一度訪れたいとかんがえていた。
 実際2年くらい前に2泊3日で横浜への旅を計画したことがある。
 ただそのときは日本中がコロナをぶり返していたときであり、自身の不測の予定も重なって結局行けずじまいになっていた。
 どうせ予定が決まらないなら、いっそのこと久方振りの横浜でも歩いてみたっていいんじゃなイカイカ由比ヶ浜じゃなイカ? というツッコミは置いとく)というおもいが旅に行く前からあったのだった。
 けれども同時に、どうせ横浜にゆくなら丸一日を使ってゆっくり巡りたい、というおもいも働いていた。
 今から行くと、早くても10時半過ぎ、いや実際には11時近くになるだろう。夕方には東京・調布で友人と会う約束もある。ぼくとしては8時ごろには桜木町駅に着いて、港風香る中カフェと洒落込みながらあちこちを18過ぎくらいまでぶらぶらしたかったので、
(同様に軽井沢も連泊で楽しみたいというおもいから今回の候補にはならなかった)今ひとつ決断できないでいた。
 それにきょうは土曜日。
 今回の2連休は希望休ではないため、できれば平日の少しでもお客さんの混まない日に行きたいおもいも強かった。
 そんなことをしている間に、終点の東京駅はすぐそこまで迫っていた。
 旅に迷いは禁物だ。ぼくは咄嗟に浮かんだことばで自分に発破をかけ、ええいままよ、と自分の中で跳ね起きたヤンパチの動くままに横浜へゆくルートを急いで調べだしていた。
 
 東京駅を出たぼくは中央線に乗った。
 なるべく荷物を減らすために、一旦新宿駅に向かってからそこでコインロッカーに荷物を預け、湘南新宿ラインに乗る算段を立てた。新宿からは宿のある調布に停まる京王線が走っている、というのもあった。
 その中央線の中である妙齢の女性の方に声をかけられた。
 イエイエ、ワタシ不審者ジャナイヨ。
 ネガティブなおもい込みとは裏腹に、奥さんは「この電車、信濃町に停まりますか?」と尋ねてきた。ほっとした。
 おれだって伊達に東京に5年半いた訳じゃないぜ、それくらいならわかる、とぼくは奥さんにこの電車は停まらないことを説明した。
 そこでやめておけばいいものを、ぼくはお節介を働かせて「山手線に乗り換えれば大丈夫ですよ」と知った風な口を聞いた。新宿で降りて山手線に乗り換えれば二駅だ。
 奥さんはぼくにありがとうと会釈をすると、御茶ノ水駅で停車した電車から降りて行った。そこには向かいのホームに間髪入れずに総武線が入ってきた。
 そこで気づいた。
 この総武線に乗ればいいだけじゃね?
 てかそもそも、山手線って信濃町駅停まらなくね?
 いそいそと総武線に向かう奥さんを呆然と眺めながら、ぼくはやっちまった感に打ちひしがれていた。
 調べてみれば、山手線は信濃町駅を通過さえしない。新宿から二駅? それ、原宿です。片腹痛いわ。
 伊達は畢竟伊達である。ぼくは自分の伊達な5年半の東京生活を遠い目で見ながら、田舎者が出しゃばるのはよろしくない、とまた体験から学びとっていた。他人には自分のわかることしか教えてはいけない。真っ赤な恥が噴き出すだけだ。
 嗚呼、奥さん、ぼくのことは忘れてください・・・、これを機に、ぼくは東京の電車事情に明るくなろうと密かにおもった。
 
 なにはともあれ、ぼくは横浜、そうして桜木町駅へと降り立ったのだった。
 ホームに出るとすぐに、そこに設置された時刻表の看板を写真に収める人だかりが目についた。
 なにしてんだ、と怪訝になりながらそのひとたちを覗き込むと、その時刻表にはポケモンのイラストが描かれていた。ピカチュウと、それから最近新しく誕生したポケモンたち。みんなそれを撮っていたのだった。
 ホームの階段を降りて改札階に来てもそこにはまたポケモンのイラストがあり、みんなが写真に躍起になっていた。ちょうどピカチュウが箸を持ってラーメンを食べようとするイラストである。なるほど、こりゃみんな撮るわな、とぼくはどこか感心さえしながら眺めていた。
 そういえば、いつぞやニュースでポケモンの世界大会が横浜で行われるみたいなことを伝えていたのを今になっておもい出した。それがどうやら本日のようであった。
 道理でポケモン一色なわけだ。ペリーが浦賀なら、ピカチュウは横浜か。
 その世界大会の一環かなんなのか、なんちゃらスタンプラリーといったものも開催されているらしく、改札を出るとそこにはスタンプラリーの台紙を求めるひとたちがぐるぐると列を作っていた。
 それからピカチュウの、なんというのか頭に乗せる飾りも配っていた。
 多少の行列だったら参加しようかともかんがえたものの、アーボックもびっくりのこの長蛇の列にぼくはすっかり気圧されてスタンプは彼らに任せることにした。
 駅ではさらに、なぜか東京ばな奈が山積みとなってバカ売れしていた。そんなバナナ。パッケージをポケモンにするだけで金儲けができるというのか。
 駅舎を出て仰ぎ見ると、「桜木町駅」と書かれた看板にもポケモンが描かれていた。ポケモン恐るべし。世界をひとつにする力があるのだから、ここまで来るとまさにモンスター、ペルリもびっくりの化け物である。鎖国ナンテ通用シナイヨ。
 広場には親子連れが何組となく溢れていて、そのひとの多さにぼくは馬鹿みたいに面食らっていた。土曜日であるから混雑は覚悟していたものの、夏休みとポケモンが重なれば混まない方がおかしい。皆ポケモンマスター・サトシというのか。
 みんなのお目当ては巨大なバルーンピカチュウで、青空にくっきりと映えるそのピカチュウの前に入れ替わり立ち替わり子どもが立っては写真を撮ってもらっていた。
 それは子連れでないぼくでも見ていて微笑ましいものだった。
 父親というものは、こういうときにこそここぞとばかり父親らしく頼もしく振る舞うのだろうか。誰だって子どもの前ではかっこいい父親でありたいものだろう。
 親子に共通の話題があるというのは、こういうときに案外一番効果が発揮されるものなのかもしれない。こうしたイベントを楽しめるのは親子連れの特権だった。
 ぼくもなりふり構わずバルーンピカチュウをカメラに収めながら、イベントから外れてごくごく日常の横浜を探しに歩き出した。
 
 せっかくだからゴンドラにでも乗ろう、なあにすんなり乗れるだろう、とおもって、まだ新設されて年月の浅いゴンドラ乗り場に赴くと、そこもすでに長蛇の列だった。おいおい、これじゃあ神龍に頼んだって乗れないぞ。
 長蛇は嫌いだ、とぼくはまたもや早々に諦めて、頭上をのんびりゴンドラが行き交う中汽車道を歩いた。
 乗れなかったのは悔しいけれども、自分の歩く速度で久しぶりに見る横浜は、天気の良さもあってか、建物も海も現物以上に眩しく感じないではいられなかった。
 これは多分に自分の心象が影響している。
 ランドマークタワー日本丸も観覧車も、毎日見ているひとにとってはただの風景かもしれないものの、ぼくには新鮮な輝きを持ってそこにあるように感じられた。それだけ久しぶりの横浜にウキウキしていたのだろう。目の前の海の、いちいちの波の動きや音もぼくには心地よい観光名物であった。
 そこにあるのはただの海や波じゃない、横浜の、鉄道発祥の地桜木町の、みなとみらいの海や波であるのだ。・・・
 
 足の赴くままに赤レンガ倉庫までやってきた。
 そこでも巨大なバルーンピカチュウや、小さなバルーンで膨らんだ他のポケモンたちに出迎えられた。名物赤レンガなどどこへやら、ぼくはすっかりポケモン力に圧倒されていた。
 そう言えば、汽車道を通る際にもバルーンピカチュウが佇んでいて、いろんなひとが横浜ランドマークタワーとのツーショットに苦心していた。
 ピカチュウが一匹、ピカチュウが二匹、ピカチュウが三匹・・・、これがホントのセカチュウ、世界はピカチュウでできている、とでも言うのか。でもそれはそれで悪くない、とぼくは妄想にふけりながら、近代的直線美的な赤レンガ倉庫と、ポップで丸みを生かしたポケモンバルーンの双方を旅の記憶としてしばし眺めていた。
 小バルーンは基本的にピカチュウプラス別のポケモンで並んでいた。
 その別のポケモンの中にニャースがいなかったのがぼくにとってのいまひとつなポイントだった。運営さん、アニメ見てた?
 バルーンの中には触っていいものもあるらしく、特にラプラスのバルーンは、その背中に子どもを乗せてのハイチーズをする親子で賑やかだった。
 その中の一組、なんとか娘をラプラスの背中に乗せようと躍起になっている家族がいた。
 両親はどうにか我が子を説き伏せようとするものの、娘の方では頑なに拒んでいる。ついには無理矢理乗せて急いで写真を撮ろうとしていた。娘は大泣きである。うーむ、子どもの気持も大切にしてください。
 その娘が数年後、数十年後にはいい思い出になっていることを祈っておいた。
 
 ぼくは相変わらず港をのんびり眺めながら開港の道を歩いた。
 北村太郎の詩を断片だけでもおもい出したり、その詩集の表紙に使われた岡鹿之助の静謐で印象強い点描絵を目に浮かべたりしながら、飽きることのない港町を五感で感じようとしていた。
 やがて山下公園に着いた。
 スタジオジブリの映画『コクリコ坂から』の影響で、その当時は東横線に揺られながらここまで来たことなどが自然とよみがえってきた。
 氷川丸ホテルニューグランド、そびえているのに威圧感のない柔らかなマリンタワーを見ながら公園内を歩いていると、当時はまだ東横線の始発は渋谷だったことや、『コクリコ坂から』からのうちわが配布されていたことなど、そんなことまでつられて浮かんでくるのだから不思議だった。あの頃は主人公たちの真似をして、夜の公園をゆっくり歩いたものだ。
 この公園にいる━━━その空気感がぼくにはなぜかたまらなく愛おしく、同時に懐かしかった。
 山下公園の芝生の緑は、見た目以上に眩しく感じられて、そこで寝そべるひとや、その脇を自転車で過ぎてゆくひと、ベンチでおしゃべりに夢中になっているひと、そういったここでのなんでもない光景も、ひとつの愛おしい風景画のようにおもえた。
 ぼくは時間を念頭におきながらも、そんな海と公園をゆったりと眺めて歩いた。
 ぼくにとっての、前回から止まっていた横浜の時間がまた動き出すのを感じるかのように、ゆっくりと歩いた。
 
 山下公園に別れを告げたあとは、昼食がてら中華街を巡ることにした。というか肉まんでも食べ歩きしようとおもった。
 過去のこともあってか、ぼくにとって中華街での食事と言ったら肉まんという頭になっていた。ひとつのお店で腰を据えていただくよりも、せっかくだから街の風流を味わいながらあちこちのお店を食べ比べる方が旅らしい、とかんがえてたのかもしれない。
 とりあえずぼくは、あっちか、こっちか、と山下公園から中華街に行くまでの道を手探りに歩いた。
 すぐに着くはずだ、というおもい込みはどこからきたのか、実際にはなかなかあの印象強い赤い門に辿り着けずに、ぼくはその辺をぐるぐるしていた。腹もぐるぐる鳴っている。
 もう昼飯はさっき見つけたナチュラルローソンでいいか。・・・
 そんな風に半ば妥協しかけたとき、ようやく「関帝廟道」と書かれた(実際には漢字が多少違うけれども変換で出てこなかった)あの金縁極才色の門が目に入った。
 相変わらず凝った造りで派手だなあ、とぼくは見つけた安堵からか、その装飾のゴテゴテしさになにかいかにもな中国人精神を見るようで笑みがこぼれた。
 門は見ているだけで中華風音楽(主に『cooking man』とかいう音楽)が勝手に脳内再生された。
 同時にぼくの頭はなぜか少林寺拳法と中華料理と、あとチャイナ服で占められた。チャイナと言ったらみわべさくら先生、いやいやそれは置いといて、チャイナ服はおさげ並みに現実で目にすることのない幻想だ。
 ぼくはごった返す中華街に足を踏み入れ、適当にお店を見て回りながらどこかで肉まんを注文することにした。
 
 初めて訪れた頃は甘栗を勧めてくる店員さんがやたら目についた。
 それが今ではどこへやら、時代は甘栗から占いを勧める売り子さんに様変わりしていて、甘栗勢は蚊の鳴く程度しかいなかった。一体この年月の間に、甘栗になにがあったというのか。甘栗事件でもあったというのか。
 そんなことはどーでもよくて、ぼくは街の隅々まで明るく賑やかな中華街を堪能しながら、やがてキレイなおねいさんがレジを担当しているお店で肉まんを購入した。
 400円ほど出した肉まんだけあって、コンビニの中華まんなど子どものおやつ程度と感じるほどのボリュームがあった。
 ぼくは柔らかな皮の感触も味わいながらそのデカ肉まんを頬張った。いや、この界隈ではこのサイズがレギュラーサイズなのだろう。こりゃまるでおっぱいだぜ・・・ぼくはイケナイと感じつつ、自分がすなおに抱いた感想を大事に思い出にしまった。
 が、そういうときというのはどうもうまくできているものだ。
 ぼくが肉まんにかぶりついたときに、向こうからたわわな胸部を震わせたTシャツ姿のおじさんが威風堂々歩いてきた。たっぷりと存在感のある体つきだった。
 ぼくが今頬張ったのは、あの胸部と同じもの・・・。
 ウエー、とオソロシイ連想をしてしまったぼくは慌てて肉まんを口元から放した。
 いや、ひとの体型にどうのこうの言えた義理はないし言う気もないけど、いかんせんタイミングが悪すぎた。おじさん、あなたとはもっと別のところで出会いたかったよ。
 ともあれ、おじさんを見てしまった後となっては、肉まんの処理に困ってしまった。ぼくが変なことをかんがえなければいいだけの話だったが。
 ぼくは自分に、これは肉まん、これは肉まんと暗示をかけながら、なんとか口に突っ込みつつ中華街を見物した。
 
 中華街の後は、港の見える丘公園へ、散歩がてらに立ち寄った。
 山下公園は日に当たった平たい公園であったけど、こちらは木陰に囲まれた起伏のある公園だった。同じ港の公園なのに、その好対照がなんだかよかった。
 セミの鳴き声が木陰の奥からくぐもったように聞こえてきた。ぼくはその中を、階段を登って進んでいった。午後の散歩にはとても心地よい雰囲気だ。
 やがてひらけた展望台へとやってきた。
 多くの観光客が円形に組んである手すりに寄りかかって横浜の港を一望していた。青空と白い雲のどこまでも清々しい天気であるから、眺めには一段と青さを感じられた。ぼくも風を受けながらしばし見入っていた。
 展望広場には『コクリコ坂から』を記念して建てられたポールがあり、今日も航行の安全を祈る意味の込められた旗が港に向かって揺れていた。
 正直、この旗は劣化とともに撤去されているんじゃないか、と半ば期待してなかったけど、旗はとてもキレイだったし、映画を紹介する案内板も誰かが手入れしてくれているのかとてもキレイだった。ぼくにはそれが嬉しく、ついつい青空に旗がはためく様を眺めていた。
 ぼくはそれからすぐ隣の庭園へと向かった。
 イングリッシュローズの庭、というのだろうか、そこには噴水もあり、草花に覆われたアーチも並んでいた。
 そのアーチが続く通路の、突き当たりのところには一脚のベンチがしずかに佇んでいた。
 そこには誰も座っていなかったけれども、背中に緑を茂らせどこか隠れるように影を落としているそのベンチを見ていると、まるで何者かがひっそりと呼吸を整えながら休息をとっているかのようにもおもえてきて、ぼくは座るのを遠慮して通り過ぎることにした。夏そのものでも腰掛けていたのだろうか。
 そんな冗談に自分で苦笑しながら、ぼくは今回の旅で密かに目的地にしていたティールーム霧笛へと着いた。
 ここは大佛次郎記念館に隣接したカフェで、記念館に入らずともお邪魔することができた。
 外観はレンガ造り、乃至はレンガ張りで、アーチ状に空いた穴に白いサッシの窓が取りつけられていた。その白窓が玄関となっており、『霧笛』と店名が掲げられていた。横浜の、それも公園内にとてもよく馴染むお店であった。
 本当であれば、この記念館を含めた洋館を数ヶ所回ってみたかった。
 ただ、今回は飛び入り参加の横浜で時間に限りがあったので洋館は半ば諦めていた。そこで、せめてどこか一ヶ所、とかんがえたときに、この公園内の喫茶が頭に浮かんだのだった。それにぼくは前々からここでチーズケーキを食べてみたかった。
 ぼくは入店して、すぐ右隅の席に座った。
 猫一色に装飾された店内には他に数名のお客さんが腰を落ち着けており、すっかりくつろぎながらおしゃべりしたりコーヒーを口に運んでいた。
 ぼくのすぐ近くには、こちらも猫があしらわれた屏風がガラス越しに飾られており、テーブルにもライオンの立て髪みたいにバラに顔をうずめた猫の置き物が乗っていた。ユーモアに事欠かないカフェだ。注文してからの待ち時間も気になることはなかった。
 店内からの眺めもとてもよかった。
 まるでそこに座って外を見ているだけでインスピレーションがどんどんと湧いてくる気になる。そういう、なんにもしないでただガラスを通して外側を見ている、という行為自体がどこかロマンチックで、喧騒から建物ひとつ分切り離されたこの場所の雰囲気は今のぼくにはとても心地よかった。横浜は上手にロマンを組み込んでいるものだ。
 程なく、注文していたロイヤルミルクティーとチーズケーキがきた。
 このチーズケーキは大佛次郎夫人のオリジナルレシピによるもので、ここでしか味わうことの出来ないものだ、と銘打ってあることもあり、ぼくはゆっくり丁寧に、とりこぼしのないようにと注意しながらよく味わうことに努めて口に運んだ。
 お目当てにしていたその洋菓子は、程よい酸味が口の中に広がり、とてもおいしかった。
 
 ぼくは舌鼓を打ちながらきょうのここまでの旅を振り返っていた。
 半ばやっつけ気味に選んだ旅先ではあったけれども、こうして港眺望の力も借りながらおもいを馳せてみると案外楽しい旅になっていることに、半ば驚き、半ばほっとしていた。
 最初は天候さえ危ぶまれていた。
 実をいうとぼくが旅する日は、つい5、6日前まで台風とドンピシャでかぶる予報になっており、場合によっては中止さえも頭に浮かんでいた。
 それが実際来てみると、天気は快晴で旅にもってこいの日和なのだからありがたかった。美術館に入り浸った休日であったなら、天気の恩恵をすっかり忘れていたかもしれない、なんてのは、ちょいとしたジブリへの当てになってしまうだろうか。これが結果オーライというやつなのだろう。
 参加はしなかったものの、ポケモンのイベントもサプライズであったし、懐かしいいくつもの建物や通りと再会することができた。期待通りの出来事、期待以上の出会いが今回の港の旅に彩を加えてくれた。
 きょう横浜を選んだことが正解だったのかどうだったのか、もうそんな答え合わせには興味はなかった。あっちを選んでいれば、こっちを選んでいたら━━━それはどこまでいっても終わらないし、港を堪能できた時点で満足だった。旅はどうせ、何を選んだって楽しいのだから。・・・
 
 ぼくは名残惜しむように、ミルクティーの最後の一口を飲み干した。
 猫の尻尾が振り子になっている時計が時間を進めていた。そろそろ、この港町に手を振る時刻になることをぼくは感じた。
 会計を済ませてお店を後にすると、またじわっとした暑さが日光とともに降り注いできた。
 けれどもこの暑さも、旅人のぼくにとってはひとつの思い出として持って帰りたいほどの印象であった。
 ぼくは来た道をなぞるように降りて行った。
 もう一度山下公園に戻ったら、そこでお土産を選びつつ、今度はみなとみらい線に乗って直通で渋谷まで出てみよう。馬車道の散歩や大さん橋はまた今度だな・・・、そんなことをかんがえながら、ぼくは残りの横浜時間の、なるたけ隅々まで意識を向けてみようと悪あがきに努めてみるのだった。