STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

精一杯の文学

 セミは幼虫の姿で6年間土の中にいて、地上に出てきて成虫になれば1週間のいのちしかない、というのは、小学校低学年の頃にはすでにどこからともなく聞いていて知っていた気がする。そのあまりの短さに、有り体に言うなら可哀想だという気持やいのちの尊さみたいなものを子どもながらに抱いたものだった。
 セミは全国各地どこにでもいる身近な昆虫であるから、多分子どもの頃から馴染みのある生き物のひとつになって、その生態も自然と憶えたんだとおもう。
 かれらの鳴き声はすっかり夏の風物詩で、夏の間中あちこちの林や森の中、都会であっても街路樹や電柱にしがみついて、ひっきりなしにその声が響いている。夏だなあ、とおもうひともいれば、うるさいなあ、と気だるげになるひともいるだろう。
 ぼくらはときに、小さいもの、それでいていのちが短い者たちに、なんというのかこころを寄せたくなるときがあるものだ。
 そこにはどういったこころの作用が働いているのか、ぼくら自身がその者たちになにかを投影しているのか、あんまり詳しく踏み込むのも億劫だけれども、それはともかく、ぼくはときどきセミたちのその必死に鳴きつづけている姿になにもかんがえないように努めながらただずっと聞き入りたくなる。
 6年もの歳月を土の中で暮らしたというのに成虫になったとおもったら1週間で死んでしまう、その、人間サイドからしたらあまりにも短い成虫期間にかれらの、ときに悲痛とさえ感じられる鳴き声を重ねて勝手にはかない気分に、感傷的な快さにひたりたいからかもしれない。
 セミの鳴き声が、他の生き物以上に力強く、全力で今を生きている、そんな姿を見出さないではいられないからだろうか。特にミンミンゼミなんて、最後の一声まで搾り出さんとするほどの、健気とさえ感じてしまう鳴き方で夏の太陽に焼かれている。
 単純に、ぼくがそういったことにうつくしさを感じている、ということもある。
 滅びの美学、乃至は亡びの美学というやつか。或いは憧憬と言い換えても差し支えない。ひょんな拍子で、ぼくにはなぜか短い一生を終えるものに憧れも抱いてしまうときがある。しかもそれが思慮深い人間などではなく、打算などかけらも持ち合わせていないように見える昆虫の純粋な生の姿であればこそ、その想いはより強まる。生きている感じをこれでもか、と受け取ってしまうからかもしれない。これじゃあ昆虫ではなく中二である。
 自分のいのちがどれだけしかないのか、かれらは初めから知っているかのように、陽の光を受けた日から最期の日まで精魂を込めて鳴いている。しかもその理由が、求愛のため、後の世に自身の種を落とすために、自身の体が力尽きて落ちるのも構わず声を注いでいる。
 なんというロマンチストであるのだろう。そんな純粋な生き方を見せつけられたら、やろうとおもっていたことに一向に手をつけずに過ぎてゆく一日を何百何千日と繰り返している自分の生活が、もといいのちが、随分とちっぽけなものにおもえてやるせなくなってくる。
 きっとかれらはあきらめなんてものを知らないのだろう。そうして、だからこそ全力で、それがうつくしい。
 いや、純粋でなければいのちではない、なんて恥ずかしいことを言うつもりはない。それでもカッコつけたことを口にするなら、どうして世界がうつくしさに満ち溢れているのか、それはこういった世界を眼中になど入れていない者たちが精一杯に生きているからだ、とも言える。かれらだって残したいものがあるのだ。人間と同じように。
 ぼくら人間にはことば、文章があるように、セミには鳴き声がある。実際には声とはちがうと昆虫学者は指摘するかもしれないものの、空気を震わせておもいを伝えるその形は声と称しても文学的には問題ないだろう。
 ぼくはここで文学を持ち出して、その鳴き声こそがセミたちにとっての文学だと想像をはたらかせたい。
 短い一生、であるなら、かれらが作り上げているのは短歌や俳句であり、かれらはその歌を、一夏をかけて詠んでいる。いのちの限りを尽くしに尽くして、夏の暑さの中、他の全ての行いになど目もくれずにただその文学にのみ何度だって精一杯取り組んでいる。かれらもまた、ひとりの文学者なのだ。そういったいのちの中に、信じられないほどうつくしく輝くものがあったりする。
 うつくしいものに必ず終わりがあるというなら、いのちはそれ自体がうつくしいものであると断言できる。
 逆にうつくしさなどとっととうっちゃってしぶとく生きる道もまた、可能性のある道である。うつくしさにとらわれると、なにかと足元がおぼつかなくなるのはぼく個人の度々の経験だ。
 そういったことに頭を回しながら改めてセミの泣き声を聞いていたら、なんだかふと祇園精舎の鐘の声のように感じられてきたのだった。
 特にジリジリとした日差しが影を潜める夕方、月が西の空にポツンと浮かんでいるときに聞こえてくるセミの声なんかは、うつくしさの中に重なるようにむなしさをともなってくる。
 諸行無常の響きとはセミの鳴き声である、とは誰かが言っていなかっただろうか。もちろんそれが単なる錯覚であったとしても、一夏の中にのみ成長した姿をとどめておくことのできるセミの鳴き声は、祇園精舎を聞いたことのない身としてはまさにその鐘の音そのもののようにおもえてならないのだった。
 そういえば冒頭に祇園精舎が出てくる平家物語も、栄華を極めた強者たちの、けれどもそれがうつくしいのは後々滅びることを運命付けられていたがためにこその、そうして最後はその通りに没落してゆく物語であると、そんな風にも言える作品としてぼくは捉えている。
 源平であるなら、そこに結びつける昆虫は本来蛍に譲るべきかもしれないけれども、それはさておいて、実際にあった歴史に多くのひとの語りを重ねて物語の形にしたその作品は、そういった時に悲劇的ともとれる運命の中でさえも、持って生まれたいのちを輝かせたひとびとのいたことを今に語り繋いでいる、そんな風にも言えないだろうか。
 これもまた、いのちのうつくしさと共に短い故のはかなさを伝えてるような気がしてくる。ぼくとしてはそれがセミのいのちと鳴き声とに繋がる。兵どもはいつだって、セミのように短い一生の中に消えてゆく。
 なにがそんなにもむなしいおもいにさせるのだろう。別れとか、運命とか、そういったなにか人間にとってもどうのしようもないもの前にいながらそれでも懸命に生きている尊さを、かれら短いいのちの昆虫に見出しているせいなのだろうか。
 短い一生の方がよりいのち足り得ているとでもかんがえているのだろうか。一所懸命であることの方がひとはうつくしさとして惹かれてしまう。
 いや、精一杯生きることに長いも短いもない。
 ぼくはそう自分に言い聞かせた。何百年と生きつづけている木もまた、その年数分精一杯生きているにちがいないのであるから。いい加減刹那的なものにばかり本質やら正解やらを感じようとする自分に、ぼくは釘を刺しておいた。限りあるいのちも、限りないいのちも、同じように生をいっぱいに生きているのだ。
 自分が、自分こそが、そんな精一杯のかれらを見習って、かれらの生き方から助力を得て、こちらもできることをことばに注いで、やれるだけ文学に身を投じればいいだけなのだ。
 ぼくはだんだんと遠ざかってゆくセミの声を耳にしながら、そんな風に逡巡していた自分の気持にようやっとひと段落つけることができた。
 かれらのように純粋なロマンチストになれればもっといいのだけれどもなあ。・・・