STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

春のスケッチ

 4月の頭、ぼくは連休をとって東京へと足を伸ばした。
 予報では雨だったけれども、雨どころか雲も少なく穏やかな晴れ間に恵まれた。天気というのは旅に大きく関わるものだ。素直にありがたかった。
 ぼくは天気のおかげで朗らかな気分になりながら新宿に向かった。山手線に乗り換えた。
 降り立ったのは高田馬場駅だった。
 西武線と連絡している駅は、日曜日ということもあって東京の駅らしく込み入っていた。
 ここは昔、ぼくが東京に暮らし始めた際によく使っていた最寄駅だった。
 もっとも、当時のぼくはケチでビンボーだったので、移動には歩いたり自転車でこいだり、大して最寄駅として使っていた訳じゃないけれど、それでも遠くへ行く場合はこの駅のお世話になっていた。古巣、みたいな感覚だろうか。
 高架下の壁に描かれた手塚治虫のキャラクターたちや、早稲田通り沿いの広場を渡る二連の横断歩道など、ぼくにとっては懐かしさを呼び起こすものがあって、なんだかホッとした。同時に、初めて高田馬場に降り立った頃がおぼろげによみがえってきて、どこか心地よかった。
 ぼくは早稲田を目指して歩いた。
 途中、明治通りと交差する場所まで来ると、一度そこで進路を変えた。
 歩いた先にあるのはまたもや交差点で、そこは神田川都電荒川線も交わるなかなかのスポットだった。
 新目白通りを横断しながら、電車が明治通りに向かってカーブする様子はどこかレトロ感があり、ちょうど見頃を迎えた桜の花と相待って実に微笑ましい春のひと場面だった。歩道で椅子に陣取りカメラを構えるひともいた。なるほど確かに、絵になる構図だ。
 東京は満開だった。
 ぼくは電車が通過するのを待ちながら、改めてそれを実感していた。神田川沿いに植えられた桜の木からは、あふれんばかりに花びらが咲き誇っており、道ゆくひとを和ませていた。東京には季節がないとか、忙しないとか、よく見もしないで憶測を述べる地方のひとがぼくの地元にもいるけれども、これをみればそんなことも言えないだろう。
 都電荒川線と桜を一緒に撮ろうとカメラやケータイを構えているひとたちがいるこの場所は、実にのどかで春らしい雰囲気に包まれていた。
 ぼくもみんなの真似をしながら数枚ほど電車と桜の写真を収めた。暮らしていた当時は写真なんて撮らなかったのに、離れてからようやくレンズを構えているのだからおかしいものである。
 それから少しばかり神田川沿いを歩いてから、再び早稲田通りに戻った。
 本日の目的地は神楽坂にしていた。当時の自分がしていたように、早稲田からそこまで気ままに歩いてみようとおもったわけだ。
 そのまま早稲田通りを歩いてゆくと、入学式でもあったのだろうか、早稲田の学校の校門前にはたくさんの学生と保護者とが並んでいた。体格を見る限り、中学生だろうか。日曜日にわざわざ学校に出向くとは、保護者の都合でも考慮してなのかもしれない。
 真新しい学生服に身を包んだ学生たちが桜の花に包まれている様子は、これもまた春らしくのどかな光景だった。
 そのまま進むと、道は枝分かれしている。早稲田通りと夏目坂だ。
 ぼくは夏目の名前につられて夏目坂通りを選んだ。早稲田に来た頃もこの辺りを散策し、知らない間に漱石公園を発見したことを思い返して、今度もまたそこへ行ってみようとおもった。
 おもったはいいけれども、やっぱりというか、記憶は曖昧、むしろ地理などすっかり忘れ果てていて結局ぐるぐる探すハメになった。人間うろ覚えで行動するとこうなる。嗚呼、時間だけが過ぎてゆく。
 それでも、知らない道を歩くのは楽しかったし、昔もしかしたら歩いていたのかなあと想像することもまた感慨深くてよかった。
 ちょうど漱石公園の案内板が見つかったので、これ幸いと夏目坂を左に折れて案内されるままに歩いて行った。
 しばらくして、道路の突き当たり、それも漱石山房通りと接する付近にある公園にようやくたどり着いた。
 といっても、その様相はなんだか前来た時、つまり10年前とは違っていた。なんだか真新しい建物が建っていた。
 ぼくのうろ覚えな記憶の中にもその施設はなかった気がした。以前はただ公園ばかりがあり、その中に資料が置かれた小屋があるきりだったはずだ。あとは、漱石の暮らした家の一部を再現した建物があるくらいだった。
 それが今では『漱石山房記念館』と銘打って立派な建物に形を変えていた。夏目家を一部再現した家もその管内に収まっていた。
 ぼくはその記念館をただポケーッと眺めながら、妙に時の流れを実感していた。そうか、10年もあれば変わるものは変わるのか。
 ただ、公園は変わらずに残っていた。
 ぼくは神楽坂を優先するため、その漱石山房記念館は次回のお楽しみに取っておくことにし公園をしばらく見て回ることにした。
 ここも桜が満開だった。
 園内には他の花々も咲き誇っており、春の陽気と静けさも相まってぼくはゆっくりと巡ることができた。
 ここには猫の墓も建てられている。『吾輩は猫である』のモデルとなった猫を含め、夏目家で飼われた生き物を供養するために建てられたものだった。現存する石塔は、空襲で一度損壊したものを利用し建て直されたものらしいけど、往時の漱石山房を偲ばせる唯一の遺構であることが案内板に書かれてある。
 建物はすっかりとなくなったのにお墓だけが残っているのだから、なるほどお墓とはよくできたものだ、とぼくは変に納得していた。お墓冥利に尽きる、とはこのことか。いのちとか魂とか、そういったものを安置するなら、こうした無機質な石が一番の適任なのかもしれない。
 そんな無機質な石でできた塔は、草花に囲われながら今も石らしくただじっと立っている。その淡々とした様が、ぼくにはとても心地よかった。
 今度東京に来る時は、公園と記念館とを回りながら、都電荒川線に乗って漱石の墓参りをしてみてもいいかもしれない。ぼくはそんなぼんやりとした旅の計画を浮かべながら公園に別れを告げた。
 そこから道なりに歩いてゆき、ようやっと目的地の神楽坂に辿り着いた。おそらくは10年振りだ。
 今と昔とどこが変わったのか、そんなことがわかるほど詳しくもなく、ぼくはただ自分が初めてここへきた時の感動がどんなものだったのかにおもいをはせながらゆっくりと確かめるように歩いた。
 おしゃれな街灯の柱には「神楽坂」と書かれたのぼりが掲げられ、お店の前には看板やら商品棚がせり出ている。日曜日であるからか、車の往来は制限され、代わりに人々が気兼ねなく道路まで出てきてはあちらの店、こちらの店と見物していた。ちょうどお昼の時間であるから、飲食店には人だかりができていた。
 ぼくはそんな賑やかさを心地よく感じながら歩を進めた。
 すると道端になにやら銅像を発見した。
 それは4コママンガ『コボちゃん』に出てくるコボちゃんだった。
 通り沿いに寺院があったのは覚えているけど、果たしてこんなものあったかどうか。ともすればこのコボちゃんも、漱石の記念館同様、ぼくが東京を離れてから設置されたのかもしれない。
 屈託のない笑顔のコボちゃんは、誰がやっているのか洋服でオシャレにコーディネートされていた。神楽坂のマスコットキャラクターというわけか。その扱い方から、愛され具合が溢れていた。
 新しい発見がここにもあったことに満足したぼくは、これから飯田橋付近でお昼を食べて総武線にでも乗ろう、と神楽坂を下っていった。