STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

花の女神

 高階秀爾(たかしな しゅうじ)氏の本『名画を見る眼』には、レンブラントが1657年頃に描いた『フローラ』が紹介されている。
 レンブラントを知っているひとは多い。「光と闇の魔術師」「光と影の画家」そういった呼び方にふさわしく、豪華な装飾品とともにその明暗を巧みに利用した劇的な構図をだれもがおもいうかべるとおもう。ただこの『フローラ』に関しては、豪華どころかなんの変哲もない地味な作品としてとらえてしまえるような色彩の抑えられた絵画となっている。
 ところで、フローラというのは描かれたモデルの名前ではくここではローマ神話に出てくる花の女神のことを言う。
 この花の女神は西洋のなかではあまり好ましい存在ではないようで、官能性を強調した娼婦的な性格づけをされている。古代ローマでは代表的な娼婦の名前であったらしく、たとえばヴェネツィア派と呼ばれるひとたちがフローラを描く場合、この昔ながらのイメージにしたがっておおきく胸をはだけ誘惑するような眼差しがもちいられた。
 なかでもティツィアーノという画家が描いた『フローラ』は理想的なうつくしさをたたえた娼婦の姿であって、そうしてたまたまこの絵画がオランダにあった際、見かけたレンブラントは影響をうけて先の『フローラ』を制作したらしい。
 このレンブラントの絵について、かれの勘違いであり失敗だったという説明をしている別の本を見たことがあった。
 レンブラントが花の女神の性格を知らずに、構図ばかりを参考にしてしまった、しかもモデルとしてえらんだのはかれの妻なのだからかれは自らの妻を娼婦として描いてしまった、と、おおよそそういった内容だったと記憶している。
 たしかにレンブラントは直接イタリアに行ったことはないので、ヴェネツィア派の言うようなフローラの在り方を知らないままだったとも言える。うつくしい絵を見た際に、その意図するものをよく調べないで自身の妻をよりよく見せるための恰好のモチーフに採用したのかもしれない。
 けれども、ここではそういった失敗としてのとらえ方はしないで、高階氏が言うように、この絵画にはレンブラントのモデルに対する深い愛情がこめられているという見方でふれてみたい。
 レンブラントにはサスキアという妻がいて、彼女をモデルにすくなくとも三点の『フローラ』を描いている。最初の2枚はかれの画風らしくとても飾り立てられた華やかな印象を与える。それが3枚目になると装飾性がうすれ、女性の表情もどこか影をおびたものになってゆく。サスキアには3人の子どもがいたけれども、その3人ともが早期に亡くなってしまい、3枚目の『フローラ』が描かれたとおなじ年に、4人目を産んだあと、今度は自分が衰弱して翌年に亡くなってしまった。
 この死を境にレンブラントの人生は華やかさから遠のいてゆき、破産宣告を受けるまでに生活は苦しくなっていった。光と影の画家と言われるそのひとは、人生までもが劇的な構図のように対比の強いものになってしまった。
 そんな影に染まった後半生を影から支えたのが、かれの雇人ヘンドリッキエ、4枚目の『フローラ』のモデルとなった女性であった。
 サスキアの遺産ばかりしかアテにならない貧苦のなか、ひとりの女性に支えられて暮らすことが、おそらくはレンブラントの眼を外面のうつくしさから内面のうつくしさへと向かわせたのではないだろうか。富と名声を味わった人物が途端にそれらを失って貧困生活をおくることは、なによりも精神的に耐えられないだろうとおもう。そんな苦々しい人生を、ひとりの着飾ることのない女性に精神的に救われることで、外面のみでなく内面にも、むしろ内面にこそ深い輝きがあることを発見する。
 ヘンドリッキエは先妻サスキアのような派手好きではなかったようで、もちろんそれは派手などできないレンブラントの生活があってのことかもしれないものの、たとえゆとりのある生活であったとしても慎ましやかな女性にかわりはなかったとおもわれる(ちなみに諸々の理由でふたりは結婚してはいない)。
 この、内面のなかにこそ人間らしさがあらわれている女性が、レンブラントが好んだ花の女神とかさなることにより、その絵画は女神を描いたものであると同時にとても人間的な親しみをおぼえるものとなってゆく。レンブラントがフローラを好んだのは、自分の愛した女性をこの女神のようにうつくしく描くことによって自らの愛情を表現したかららしい。
 そこには花の女神が前時代からもつ卑しさのイメージはどこにもなく、高階氏のことばを借りれば「われわれと同じ空気を呼吸してい」て、そうしてそれがこの4枚目の『フローラ』になると、どん底にまで落ちた自分をそれでも支えてくれた女性に対するレンブラントの惜しみない愛情が、その愛の元となった女性のもっともうつくしく輝いている内面が、カンバスの隅々に描きこまれてたたずんでいる。
 たしかにこの絵画は華やいではいない。そこに描かれた花々はどれもがくすんでいるとさえ言える。ここにあるのは、レンブラントがあらたな人生と女性の元で見つけ出した素朴で質素なうつくしさであり、強いコントラストはないものの、調和のとれた寄り添うような明暗の効果とがあるのではないだろうか。
 ちなみに当然のことながら、絵画には色があるけれども『名画を見る眼』には白黒写真で紹介されている。この白黒写真が、絵画を白と黒とによる明暗に置き換えていることによって或いはよりモデルの女性のしずかでやわらかい印象を見る者に与えてくれている気もしてくる。色がないなんて花の女神には本末転倒であるものの、顔と服の白さがより映えて、女性の内側にあるものをそっと語ってくれているようでもある。
 レンブラントのいた時代にモノクロ写真の技術があったら、かれは活用していただろうか。或いは、水墨画の存在を知っていたなら、この光と闇の魔術師は自身の表現方法として取り入れていただろうか。モノクロ写真の『フローラ』を見ていると、そんな想像もふと起こってくる。

 

参考文献


  高階秀爾  『名画を見る眼』 1969年・岩波新書