多くのいのちたちは、だれかのために、なにかのために、役に立っているのだろうか。役に立つ、というからには、反対に役に立たないいのちもあるのだろうか。
役に立ついのち、とことばにしてみると、なんだかおそろしい気がしてくる。
いのちが役に立つものであるなら、それは道具のようにもあつかえ得ることも意味しているのだろうか。役に立たないといのちでもなく、ひとのいのちも、生き物のいのちも、役に立ってこそはじめていのちとして実感されるものなのだろうか。
ひとは時に赤の他人のいのちをつかってでも生きたいと願う、成功したいと望む。思いはいのちより重い。
であるなら、いのちはいつも軽やかでありたい。
役に立つ、立たないを離れたところで、軽やかにそこにあればいいとおもう。