STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

生命と死命のあいだ

 死者に助力を得ながら、そうして、かれらと協力しながら、いのちについてかんがえてみたいとおもうことがあった。それもできることなら、死者の方を主体として、かれらの方が生きている者よりも多くいのちたり得ているとしてとらえてみたかった。
 生命があるのなら、それらを支えるようにして死命もまたかがやいている。むしろ死者たちがうけついでいる死命こそが透きとおるほどの光でもってかがやいていて、その光が生命を支え、生命を与えてくれている。
 太陽のような強い光がひとつあると星はかき消されてしまうものの、辺りが闇であるなら、ひとつひとつは実にちいさくても数多くの星々がおもいおもいにまたたける。この星の光こそが生命として、この生命を支えてくれるどこまでも透きとおった暗闇こそが――ここではその暗闇もまたひとつの光として――死命であるととらえてみようとおもった。言わばひとのもっている生が、そのように死によって色づけられたものとして、さらにはだからこそ反対に、死命をもつ死者を支えられるのは生者であるとしてみたい。死は自然からもたらされるものであっても、死者とは、ひとこそが与えたものとして。
 仮に死者にもう一度人生を与えられるのであれば、或いはそれが最高の贈り物となるのかもしれない。どうせなら果たせなかった願いを叶えるための人生のつづきを贈れればいい。それができなくても、いのちを与えることなら、生きている人間とは別の形をもった死者としてのいのちがあると信じらるのなら、いのちある生者であればだれだって贈ることができる。亡くなればもう関係の途絶えてしまったひととしてあつかうのでなしに、生者へは決して真似のできないかれらへだけの関わり方がある。死者とは常に共にある。そういったこちら側からのあゆみ寄りをこころみてみたかった。
 生きているだけではやっぱりいのちは見えてこないようだと感じる。そこには、生とは別のいのちの形をもったものが必要で、それが死命なのではないか。まるで自分の顔をながめるために鏡をもちいるように、それは映されるものとは反対の姿になるのだけれども、たしかに自分をうかびあがらせてくれる。こんな風にして思考をめぐらせてみると、どうしても生者を生かしてくれる死者にいのちがあるものだとしないではいられない。
 いのちが生まれてくるのは、たしかにそこにいのちをもった両親がいるからであるものの、そのいのちが生命として体験を重ねてゆく際には、つまり産まれるいのちと共に生きてゆくいのちが活かされてゆくには、そこにさまざまの形をもったいのちの光が照らしてくれていることが必要で、そのなかに死命もまた自然とふくまれている。そんな生命と死命との関係を、生命は生かされてこそそこに立ちあらわれ、死者は生を与える光であると共に生を支える影でもある、そんなことを想像した。
 或いはこんなとらえ方もしてみたい。みずからがもちあわせているいのちというのは、自分にとってかけがえのない大事な死者からのあずかりものであるというように。血のつながりの有る無しを越えて、自身の人生のなかで大事だとおもえた死者すべてからのあずかりものであるように。それが壊れやすければ壊れやすいほど、尚のこと丁寧にあつかいたくなってくる。自分のいのちは本当は自分のものではなくだれかの大切ないのちである、とまでは言わなくても、自分だけのいのちとするよりも一層いのちを大切にできるかもしれない。
 そうしてそういった生き方は、生命ばかりでなしに亡くなっていった方のいのちを丁寧に想うことにもつながり、なにか単なる生や死を越えたいのちのいとなみを教えてくれる気もしている。