STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

耳が聞こえる

 
                       文章というものは、それ自身が目的では
                          なく、単なる手段に過ぎないのだから。
                                  『「文芸林泉」読後』より
                                           ――堀辰雄

 たとえば両耳をふさいでみると、表向きはそれで耳の聞こえないひとの疑似体験ができるのかもしれない。とはいえ、それはあくまで聞こえづらくなる経験をしたまでのことで、この場合実際の聴覚障がいとはやっぱりある程度ずれている。
 当たり前に耳の聞こえるひとにとって、ろう者がどこかちがいのあるひとに見えるように、ろう者はそんな聞こえるこちら側を、時にこちら側とおなじ気持で、つまり耳が聞こえることは人間として当たり前であるものの、平行して、その方が一種の特別な機能としてとらえていることだってあり得るとおもった。耳の聞こえないひとは、自分たちにとっての当たり前がどうやら障がいというなんだかマイナスのものであると自覚しながら、耳が聞こえることがふつうであり自分たちからは特別なものでもあるという、なんだか一緒くたにできないふたつのおもいを抱えて生きているのかもしれない。
 多分こんなおもいは、健常者と呼べるひとはなかなかいだけ得ない気持かもわからない。耳の聞こえるひとが大多数なのだから、それがふつうであると感じるのは当たり前で、自分が異常であると感じわざわざ耳が聞こえないという当たり前を手にしたいと願うひとは圧倒的にすくない。
 だからこういった「そちらの方がほんとうはふつうである」という特別視は、はるかに、ろう者の方がなにかのたびごとに直面していると言える。それは自分に欠けているものがあるというおもいを、もしかすれば深く突きつけられるようにいだくことにつながってゆく。
 聴覚障がいをもったひとのなかには、補聴器によってごくわずかばかりでも音をとらえられるひともいる。でもそれは老化による難聴とは比べものにもならないほどの、大きな音に気を集中してなんとか聞き取れるかどうかくらいのことだって充分あり得る。
 補聴器はそもそも高価らしい。それほどに高い買い物をしてとりつけてさえ、なかなか健常者のようにはゆかないのが現実なのではないだろうか。補聴器といってもさまざまの能力があるだろうから、一般の人間がすぐに連想できるイヤホン型のものではなくて、まるで無線でつかうかのような大型のヘッドホンのようなものでもつかえばよりくっきりと聞こえそうにおもえる。けれどもその場合でも、まるで太鼓の振動のようになんだか体に負荷をかけてしまいそうで我慢して聞く羽目になりそうでもある。
 なんとかそこまでこぎつけて、でもやっぱり聞こえないひと、或いは機器に手の届くまでがむつかしいひと、読話をまなび、できるだけの発音を身につけても、噛みあわない会話を実感させられてるろう者、健常者であることが前提のそれらのひとが求めたがる特別にも、その健常者のようなふつうにもなれなかった、酷な言い方がゆるされるのならマイナスのトクベツばかりを与えられたひと、でも、それを一概にかわいそうと勝手に決めつけてしまうのもまた、そのひとたちへのマイナスなトクベツを付加させてしまう行為になってしまいかねない。
 こんな風にぐるぐるとかんがえをかき混ぜてしまうと、どうすればいいかの解決法なんてものは、むしろその解決できる、解決がある、解決される、というかんがえを持つこと自体がわらってしまうほど非現実的な無邪気なものにさえおもえてくる。問いへの回答が見当たらない場合、そういったときは「しょうがない」或いは「わかりあえないから」と一言口にするだけでありがたいほど実に簡単に片づけてしまえる。本来よりよくひととつきあうには、そのくらい割りよくした方が断然得で負担も最小と言える。不完全なコミュニケーションしか持ち得ない人間の、そのさらに伝えあいづらく見える障がい者とのコミュニケーションは、はじめからわかってもらおうと念頭におかず、加えて「わかったつもり」で手っ取り早く丸くおさめてしまえばそれが一番楽とも言える。
 もっとも、そうは言っても、こちらのとらえ方次第では或いはいくらかばかりの、もうすこしちがう感触を得られうることもあるのじゃないかと、ともすればそんな楽な接しあいの一歩手前もなんだか見つけてみたくなる。
 いっそのこと、コミュニケーションなんてのは不完全でないと成り立たない、とここではすこし強弁にとらえてみたい。割り切れないからこそ厚みを増してつながってゆける円周率のように、会話もまた、わかりあえないことをさえ強みと活かして、それがより相手とつながりつづきあえる要素となってくれているとしてみたい。そもそもひとは、会話も、会話の元となることばも不完全と知りつつ、それを欠点とばかりにせず上手に活かして今日までこなしてきたとさえ言える。
 聴覚障がいとは、健常者にとって、コミュニケーションの実はもどかしさも兼ね備えているという面を単にはっきり意識させるにすぎない。言わばわかりやすい「わかりにくさ」で、これはかえって健常者同士の方が解り難い「わかりにくさ」としてそこここの会話に底流している。わかったつもりになったり、しょうがないと見切りをつけたり、そんなわかりあうための手頃なひとつの手は、実はだれとのやりとりにだってわりかしごろごろかくれている。むしろ聴覚障がいという見えやすいものにあらゆるひとが会話の至らなさの原因を気軽に担保してもらっていて、自分たちのことばの不備には知らんぷりで通している。だとすればろう者は、コミュニケーションの不完全の事実をなるたけふつうでありたい健常者のかわりにわかりやすい姿としてあらわしおぎなってくれていることにもなる。そこまで言うのはいささかでしゃばりがすぎたかんがえかもしれないものの、実際障がい者が欠けている存在だと勝手に決めつけているのはこちら側であるのもまた事実だと言える。
 ともかくも、気づいたら耳が聞こえなかったひとが、その周りのひとたちが、それでも伝えあうことを模索して得た手段のひとつが手話にあたる。決して魔法のことばのような万能性はなくても、これで表現をして活用してゆくことができる。どんなことばもなにかの形にはなる。それがまたあたらしく、そうしてあらわしやすい手話という手の平のことばをつくってゆく。
 だれに奪われたでもない、音を持ちあわせていないトクベツな耳であることに、時には落胆し閉じこもろうとすることだって当然あるとおもう。それでもそのようなろう者、ろうあ者は、ふつうであったり特別であったりする健常者に対してこちら側に寄り添って、唇を読んだり文字にしたり、なにより自分たちの持っているちがいをいつだって表にして接してくれている。そんな生き方が、ふとしたきっかけでだれにでもよりよい暮らしのヒントをあたえることにだってなる。トクベツやらふつうやら、特別といった不確かな物差しでだれだって不完全なものごとをどうにか正確にはかりたがるものだけれども、その物差しを用いるが故に、うまくいかない、生きてゆきづらい自分を感じてしまったときに、或いはかれらの存在がおもいもかけないほど助けとなることもある。
 コミュニケーションも、自分やことばも至らないものであってもいい、と、そんなささやかすぎて、そんなことを認めたところでなんの足しにもならないようなおもいこそ、ひとは自分から認められれば、それが案外なによりも自分のいだいている自分へのつらさをやわらげ気楽にやってゆけるのかもしれない。
 こんな風にして、耳の聞こえないひとをかんがえることに力を得て書いてみると、なんだか聞こえないことよりは聞こえることの方が不思議な気もおこってくる。わりかし、ひとが当たり前におこなっている意識すらしない行動や機能の方が不思議ばかりであって、それに耳が聞こえるのは、人生につまずかないで生きる上でどんな音でも常に耳にしていないと不安で仕様がないからといった、或いはその方がより不完全でさらには不安定ともとれるおもいが人間の根底にあるからとも言える。ともかく、不完全であればこそかえって人生はうまくゆく、とつい苦笑いしてしまうくらいにひととのつきあいや自分の在り方をとらえてみるのも、生きづらいと感じてしまう人生には、毒にも薬にもならないかわりに支えとなるようなことがあるのかもしれない。