STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

ズレの肯定

  ──読み手はあるスキーマを呼びだし、そのスキーマと文章が整合的に理解できたとき、「わかった」と感じます。しかし、その瞬間、別のスキーマを呼びだす機会を失ってしまっているのです。わかった瞬間から、わからなくなるという文章理解のジレンマは、このようにして起こります。──

 

 石黒圭氏の『「読む」技術』を読んでいたら、「言葉というものはそもそも理解のヒントにすぎず、すべてを書きつくすことはできません」さらには「書かれた言葉は理解のためのヒントに過ぎず、答えは私たちの頭のなかにある」といったことが書かれてあって、そんな折、なぜだか唐突にバウムクーヘンがうかんできた。
 この木目菓子は、芯となる棒にうすく生地を塗り重ねて厚みを増しながらじっくり焼いてつくってゆく。だからできあがったものには、当然棒を引き抜いた穴の跡がぽっかりとあいている。
 ひとが文章を書いたり相手と会話をしたりするのも、案外このお菓子のようにつくられてゆくのじゃないかとおもったのだった。
 ひとが食するバウムクーヘンの生地の部分が語られてゆくことばであって、実はそのことばは、こたえを伝えるヒントとして成り立っているにすぎない。こたえは常にぽっかりとあいたバウムクーヘンの穴みたいに、確かにそこにはあるのだけれどもよくつかめない、すべてをことばにはできないものとしてある。こたえという穴は、周りにあるヒントとしてのことばによってようやくうかんでくるものなのかもしれない、とかんがえた。
 同様に会話も、バウムクーヘンの厚みを増してゆく作業のように、互いにことばを持ち寄って掛けあい出しあいしながら理解を深めてゆくことととらえられる。そうすることによってよりしっかりとした生地ができあがる。ただここでも、理解がぴたりと一致することはどうもむつかしいようで、これは頭のなかにあるこたえを理解しあうというよりも、ことばによってできるだけ丁寧に理解を塗り重ねてゆく作業と言えるのかもしれない。
 すべてを書きつくすことはできない──確かに穴を埋めあわせたバウムクーヘンは、それはもう別のお菓子と呼ぶしかないものになる。理解のヒントでしかないことばでは厚みは増せてもこたえそのものにはどうやらなれそうではない。よく「ひとはわかりあえない生き物だ」「ことばはそもそも不完全なものでことばによる会話もやっぱり不完全だ」といったことをあれこれの作品で目にするけれども、ことば、会話、むしろことば以外であってもコミュニケーションそのものが、本来はそんなこたえという大事な穴を埋められない不完全なものなのかもしれない。ひとが会話で口にする「わかった」とは「わかったつもり」と存外かわりばえがなく、たとえわかったとしてもその瞬間に別のこたえがあるかもしれないことはわすれてしまう。わかったらわからなくなる不完全さを持つことくらい、わかりあえないこともないのかもしれない。
 そんな風に、コミュニケーションなんてそんなものは所詮不完全なものだ、とばっさりどこか冷めた目で見る方がなんだか現実的で説得力があるけれども、むしろそこから意識的に視点をずらして、会話というのはわかりあうこと自体を目的とするのではなく完全・不完全の枠を越えてひととひととがことばを重ねあってゆく、気持をそわせてゆくその行為、過程の方が結果よりも重要で肯定し得るものと言ってみたい。
 コミュニケーションとはヒントの出しあいであって、だれだってわざわざ理解しあえないように会話をしたりはしない。ずらそうとしているのではなくそれは時間のように自然とずれてしまうものになる。むしろそうやってずれてゆくことに助力を得ればこそ、お互いにかみしめあえる厚みをもった内容がいつの間にかふっくらとできあがっていることがよくある。
 会話のずれは、時におもわぬ偶然と発見を生み出すあたらしさにさえ満ちている。世の中には気づかないところで、意外にもおもいちがいやすれちがいから生まれた味わいのあるものがあふれている、と言ったっていい。こたえがからっぽなら、案外ひとは安心してこたえにこだわらないで会話をつないでゆくことに重点をおける。会話中のことばの選択肢がひろがってゆく、とでも言うのだろうか。
 そんな、コミュニケーションについてかんがえる時間をくれた一冊となった。

 

 参考文献
  石黒圭 『「読む」技術』2010年・光文社新書


 ※なお、冒頭に引用した文章中の「スキーマ」とは、同著に「構造化、一般化された知識の枠組み」を表していると書かれている。