STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

病気をあやす

 塩が体に良いことを教えてもらったことがあった。
 塩とひとくちにいっても、たとえばマグネシウムが1000ミリグラムも2000ミリグラムも含まれているような、或いは汚染されていない大昔の海によってできた岩塩のような、自然、天然の塩のことだった。ウソかホントか、こうした自然の塩はバクバク食べてもいいらしい。それはさすがにどうなのかと躊躇するものの、調べてみたら1日に10グラムも20グラムも摂取したっていいという意見も見られた。精製塩とはちがう自然の塩は、豊富なミネラルといっしょに塩分を摂るためにそのおかげで体内にとどまらないで排出されるらしかった。
 そんなことを知って、塩や、ともすれば健康に関する本でもあさっていたら、おもしろそうな1冊を見つけた。『なぜ《塩と水》だけであらゆる病気が癒え、若返るのか!?』といったタイトルがついていた。
 著者はトルコの方で、2020年時点で第8刷まで発行されている。おそらくは自己主張が日本人より強い国のひとであるからか、この本には副題として『医療マフィアは【伝統療法】を知って隠す』といったなかなか物騒なことばがつけられていて(ただ原題がおなじ意味をもつタイトルかどうかはわからない、これは訳者の判断かもしれない)これは日本の読者からしたら本に対して大分攻撃的なイメージの内容を浮かべるのじゃないかとおもえた。こんな強い口調の題を目にしただけで敬遠する読者も、日本人ならわりかしおおいかもしれない。
 実際にこの本を読んでみると、確かに現代の医療や食生活に対して手厳しい批判が目についた。なんだか現代をごっそり否定されたような、その現代生活を当たり前として生きていることをたしなめられるような或る種の居心地の悪さも感じる。それはともかくとして、肝心の塩と水とがいかに体にとって大切であるのかは非常に詳しく述べられていて、普段何気なしにえらんで口にしているこのふたつの物質の機能にあらためておもいをはせてしまうのだった。
 そんな塩と水との大切さはその本にまかせるとして、ここではその本のなかにでてきたガンについて、なんだか興味深いとらえ方をされていたので、そのことに関連させながら大分駆け足で書いてみたい。
 著者のユージェル・アイデミール氏は、現代のあらゆる病気の原因は体内の水不足からきているとしている。それはガンもおなじで、ガンとは、商業化された社会において食事や飲み物が従来の生活からかわってしまったために、水をとらなくなったために増えた病気ととらえている。
 どういうことかというと、この商業化によってひとは水よりもおいしく甘い液体を水の代わりに常に口にできるようになっていった。水より味がついていておいしいなら当然ひとはよりおいしいそちらの方を求める。それは一見するとちゃんと水分を補給している、むしろ水以上にはるかに栄養を含んだ液体を取り入れているようにおもえるものの、ユージェル氏によればそれは単に水分を摂った気になっているだけで実際には体が欲している水の必要量にはとどいていないという。それはあくまで液体であって水そのものとはかけ離れている、むしろ甘い飲み物やカフェイン入りの飲料水に至っては、体がその成分を体外に出そうとして余計に体内の水をつかってしまうらしく、ひとはこうして恒常的な水不足、乾燥にみまわれるようになる。
 水不足におちいると、さらなる乾燥を防ぐために体はエネルギー消費を減らすべくそちこちの臓器のはたらきをおさえようとする。このエネルギー量の減少が痛みとしてあらわれる。この本では、痛みとは体内の乾燥を訴えるサインであると述べている。
 脳は始めこの痛みのサインをおくりながら、乾燥しているその器官へ、別の器官から水を借りる形で吸収し分配してしのぐ。すくない水を体の各臓器でおぎないあうイメージだろうか。ただそれでも必要量の水が喉からやってこないと、水の分配をくりかえしながら徐々に体全体が水不足になってゆき、すると脳はつぎに生命維持機能に優先順位をつけて、外へ出てゆく水さえ一滴も無駄にしないようにつとめながら優先される臓器へ分配をしなおしてゆく。
 こうして、或る種脳から置き去りをくらった優先順位の低い臓器は、そんな水不足のなかにおいても生き延びられる姿を模索し変異してゆく。それがガンである、とユージェル氏は書いている。
 なぜ体が極度に乾燥するとガンになるのかというと、酸素というものがからんでくる。
 水不足とは同時に酸素不足とも言える。酸素は、人体のなかでは水に溶けた状態ではじめて体内中にゆきとどくらしい。水が減るということは溶けこめる酸素の量も減ってしまうことになる。どんなに気体の酸素をとりこんでも、体中に酸素をおくりとどける媒体としての水がすくなければ微量しか溶けこめない。人体を構成している細胞は、この本には書いていないもののおそらくそのほとんどが酸素なくしては生きることができない。なので無酸素状態は細胞の死、及びその細胞が形成している臓器の死につながってくる。細胞が無酸素の状態でも生きてゆくためには、酸素を必要としない無酸素性細胞へと変異するほかない。そうして、ガンとはこの性質をもった細胞にほかならない。
 無酸素性細胞は約4億年前に誕生した最古の生物種であり、溶岩の上でさえ生きることができるという。原始的であり、利己的で、他の細胞と協調せずにひたすら自分のみが生きようとする。ガンになるというのは、この原初の姿へ、進化の過程を逆にたどりながら先祖返りしているともうけとれる。いや、むしろその道しか水不足の細胞にはのこされていない。
 体の乾きを痛みとして訴えても、運ばれてくるものは後で余分に水をつかって排出しなければならない水の姿を真似た液体ばかりであり、そのうち脳の指令によって他の臓器からなんとか水を分けてもらうこともできなくなり、ほかから助けを得られず、水の回ってこない環境にとりのこされたなか、それでも人体がどうなろうとも独りでなにがなんでも生き延びようとして必死に抵抗した最後の手段、それがこの本ではガンと述べている。
 ユージェル氏は言う。

 

 がん細胞は、生きるのにふさわしくない環境の中に取り残された細胞が、生き残るために、その劣悪な環境に合わせて自らを変化させたものにほかなりません。今までがん細胞は、悪魔が私たちの体に忍ばせた病気であるかのように説明されてきました。実際にはがんは体の中で生きる術をなくした細胞の、新たな生存方法の模索なのです。

(太字は原文による)

 

 ガンとは、人類にとって死に至る厄介な病であっても、細胞にしてみれば生き延びるための最終手段と言える。
 この説が納得できるかどうかはひとによって、或いはいまガンであるかそうでないかによってかわってくるかもしれない。けれども、こんな風にガンをとらえなおしてみると、なんと生き延びることに一所懸命な、健気な細胞なのだろうと、むしろそんな必死さがどこか人間らしくもあり愛おしくさえおもえてしまう。だれからも徹底的に嫌われ憎まれ、滅ぼされることが当然としかあつかわれないガンというのは、実はガンになっている当人に対して、どうにか生活を見直してよりよく生きてほしいと願う、そのひとを構成している肉体からの懸命なせいいっぱいのメッセージなのかもしれない。
 たまに、とても親切でやさしいひとがガンになって、なぜあのひとが、と頭を抱えるひともいるものの、蕎麦アレルギーのひとには蕎麦に関わらない生き方があるように、そのひとにはそのひとの、自分の体に気をつけるべきものがいろいろとあるとおもう。煙草を吸っても、病気になるひともいれば100歳まで元気に生きるひともいる。たとえ親切なひとでもそういった己の体事情を後回しにしていては病気になってしまう。良いひとほど病気になる、いやむしろその親切さについつい頼り、それが当たり前のものになって気遣うことが減ってしまう周りの環境が、そのひとを病気にしてしまうこともあるようにおもわれる。
 ともかくこの本により、100パーセントガンは有害という観念がはがれおちていって、病気といえども案外とらえ方によるのかもしれないとおもえた。ガンでさえ生きていて、生きようとこころみている、と、なんだかかれらガンのいのちというものさえ実感として見えてくるような、そんな感じもうけた。


 病気と言えば、この、人間が忌むべき存在を「あやす」と口にしていた作家が堀辰雄だったと、かれの親友の神西清が述べている文がある。
 病気をあやす、というのは、堀が自身の結核を宿した体について言っていたことばだった。堀は旅行や執筆のできる元気な頃でも、年の半分くらいはじっと引きこもり静養する身であったらしい。そんな状況ではふつう、もっと健康体であれば旅も文学もいま以上にできるのに、と恨み節のひとつでも言いたくなる。もちろん堀だってそうはおもっただろうし、或る種の見栄や痩せ我慢が病気に対して「あやす」なんていう少々しゃれっ気のあることばをあてた側面もあるかもしれない。ただ親友神西が言うように、そんな気持以上に、堀は自分の内に居座る病気を自分自身としてあつかっていたのではないだろうか。旅に行けないかわりに結核を深く見つめ、執筆のかわりに瞑想をして、そうしてそんな自分の現状、病身であることをつっぱねることもなくかろやかにうけいれて、病気でさえ文学の支えとして仲よくすごしていたともおもえてくる。
 結核によく効くらしい薬が輸入されたと聞かされたとき、堀は冗談半分に「僕から結核菌を追っ払ったら、あとに何が残るんだい?」と反問したことを神西はその文章の締めくくりのなかで書いている。結核も、それにガンやあらゆる病気も、その宿主からこんなことばをなげかけられたらどんなにかなぐさめられるのだろう。病気を友とし、病気から学び、病気をも活かしてゆく。本来は病気もまた、ひとの足下に寄り添う影のように、いのちを陰から支えてくれているものであって、体をおもいやる生活の大切さも感じつつ、病気をやんわりうけいれることが案外最善の薬となるのかもしれないとおもったりする。

 

 参考文献

 ユージェル・アイデミール  斎藤いづみ訳 

 『なぜ《塩と水》だけであらゆる病気が癒え、若返るのか!?』 2017年・ヒカルランド