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STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

お稲荷さんについて

 京都は伏見区伏見稲荷大社というお社がある。全国の稲荷神社の総本宮で、千本鳥居を聞いたことくらいならあるひとは多いとおもう。近年は外国の方もよく訪れていて、信仰の場というよりはすっかり観光名所になっているものの、ともかく連日にぎわいを見せている。
 この鳥居の色、特にお稲荷さんの神社にあるものを朱の色と呼んだりする。ここからこの文集『朱の葉』の名前をいただいた。そういうこともあって、今回ここではお稲荷さんについて多少の見解を書いてみたい。


 そこでまずは内藤憲吾著『お稲荷さんと霊能者』及びその続編にあたる『お稲荷さんと霊験譚』『お稲荷さんと御利益』を参考にする。
 この本では、著者の内藤氏が実際にお稲荷さんを信仰する霊能者の方に同行しながら、その霊能者を通して見えてきたお稲荷さん信仰の姿が大変興味深く詳細に書かれてある。伏見稲荷大社といい霊能者の方といいとても魅力にあふれた本ではあるものの、その魅力は直接本を手にとって読んでいただいた方が伝わるのでここでは深入りをさけ、内藤氏が示したお稲荷さんの姿について参照したい。
 内藤氏は本のなかで、お稲荷さんとは保食神(うけもちのかみ)のことだと述べている。
 一般的にお稲荷さんと聞いておもいうかぶのは商売繁盛、ほかには五穀豊穣だとおもう。稲にまつわる神さまで、農家もふくめ商い全般に関わるひとびとが各地の境内で御利益を求め参拝する。稲と商売のイメージが強いけれども、そもそもお稲荷さんとは保食神、つまり大地母神、自然の恵みをあらわす神さまではないだろうか。
 ここでは、ひろく海や山や川や森などすべての自然とその恵みのあらわれとしての神さまととらえてみたい。人間にとって大事な衣と住もふくめた食を保つ神さま、それがお稲荷さんこと保食神だった。一応これをお稲荷さんの原初の形とし、だいたい縄文の頃まではそうであったと仮定してみる。
 弥生時代に入ると徐々に稲作がひろまってゆく。この稲というのが、縄文のひとびとにとってはおそらく目を丸くするほどの穀物だった。
 上田篤著『呪術がつくった国 日本』によれば、稲ははじめアワやムギなどの五穀のひとつにすぎなかった。というよりも、そもそも縄文人は耕作や牧畜といったなにかを育てるようなことはおそらく皆無に等しかった。
 上田氏の説によれば、縄文人は野性味あふれる活き活きしたものを食べる「活物在魂」の精神があった。いまでも日本人は食べ物に対して旬を気にかけ、旬のものを好むけれども、旬、すなわち生命力のある活き活きしたものを口にすることで、その食物がもっている生命力をとりこめると縄文人はおもっていた。食事とは単においしいものを食べ栄養を摂るのではなく、生命力、活力をとりこむことの方がはるかに大事であったと想像する。縄文人はいただくものに常にいのち、ないしは魂を見ていた。
 そんな「旬獲民」(上田氏のことば)たる縄文人であるから、旬をすぎたもの、さらにはひとの手で育てたものにはまるで興味がなかった。育てたものの方が手軽にうまいものにありつけることはもしかすれば他民族との交流でかれらも知っていたかもしれない。ただそこには野性的な気力、生命力は見いだせないと感じていた。
 日本人は家畜を好んで食べなかったことは昔からよく言われている。共に時間をすごした生き物を食べるのは忍びないおもいが働いたとは容易にかんがえられ、同時に、上田氏はそれを野生種のように活力がないため口にしても自身の生命力を高めることにならないからと考察している。
 元来日本列島は、わざわざ食料の確保のために耕したり飼育したりしなくても、山の幸海の幸が豊富であった。育てる、という行為は、それが生活維持に直に関わってくるところから発生するのであって、元から恵みが多ければそんな労力はおもいついたとしてもうっちゃってしまうのではないだろうか。それもどうせ口にするなら自分に活力を与えてくれそうな野生味あふれる方がいい。そんなわけで縄文人は自生してあるものをいただき家畜も畑もかんがえなかった。
 そんな縄文人も、稲には野生味あふれる生命力を見た。
 稲は、たとえばムギの数倍、十数倍の生産力がある。「一粒万倍」ということばがあるけれども、一粒が芽をだし穂をだし、たわわに実るさまはほかのどの五穀よりも目を見張る光景だったのではないか。
 こうして稲には生命力、魂があると感じた縄文人たちはそこから本格的な農耕、稲作を始め、やがては国家規模で田作りを展開してゆく。いまでは田園が日本の原風景と言えるほど日本人に自然となじんでいる。
 おそらく弥生人は、この豊産力のある稲を自然の恵みの象徴としたのではないだろうか。この自然力のシンボルとしての稲がやがて稲の神そのものとして独立して、今日一般的となった「いなり」という呼び方ができたとかんがえられる。
 ちなみに「文化」という単語は明治時代、カルチャー(culture)の翻訳からできたと言われている。カルチャーとはカルチベイト(cultivate)という「耕す」を意味する単語から生まれたことばであり、文化の根底には農耕があると言える。農耕も、むしろ農耕こそが文化だとはだれだってピンとこないものの、これは日本文化の祖は稲でありお稲荷さんから始まったとかんがえられなくもない。
 稲が大事な作物となり神が宿る穀物となったことで、その稲、特に収穫し貯蔵した米を食べてしまう天敵のネズミを駆除してくれるキツネが(猫もネズミを食べてくれるけれども、ここでも野生種の強い生き物を重視したか)重宝されるようになったとおもわれる。またキツネは毛色や尾っぽのふさふさも実り多い稲に似ている。ここからキツネが神の遣いとして語られるようになり稲荷神社の狛犬はキツネになった。
 すこし道草を食いたい。
 安田喜憲著『森を守る文明・支配する文明』によると、稲荷信仰の前身にはオオカミ信仰があったとしている。縄文の頃には山の神をオオカミとして祀っていたらしい。
 例えばシカやネズミが増えすぎると山菜などが食い荒らされて山の生態系が乱れる。そんな生き物をオオカミが食べてくれる。生き物のバランスがとれ、木々の若芽も食べすぎられずに成長するため森の生態系が保たれる。オオカミは縄文人にとっての食料庫、森をまもってくれるまさに自然の力の権現、神そのものだった。
 そのオオカミは春先に山から里に降り、秋の収穫終わりにまた山に帰る。これは稲作の期間と重なり、山に居ます稲の神が農耕の時期に里に降りてくるものだとかんがえられてのち、(稲を育てる力=稲魂は稲をつくらない冬の間は山にいるとかんがえたか)オオカミがその神の遣いとなり、里で田畑の生業が多くなってからはより里暮らしに身近なキツネにかわっていった。
 もうすこしだけ道草を食いたい。金田一春彦著『ホンモノの日本語』のなかにも稲の神にまつわるおもしろい話が載っている。
 日本人におなじみの桜の木がある。この「サクラ」という読みはお稲荷さんにちなんでつけられたらしい。
「サ」というのは稲の神さまの意で、「クラ」はその神さまが田作りが始まるまでいるところ、場所をあらわしているという。この本ではほかにも「サ」のつくことばを例にとりながら(サナエ、サミダレなど)桜について説明している。つまり桜とは稲作がはじまるまで稲の神さまがいらっしゃる木となる。
 ここでいう桜とは一般的なソメイヨシノではなく自生する山桜のことだとおもうけれども、たしかに桜が咲いて散ってゆく頃から田作りや苗代の準備など田植えにむけて作業がはじまってゆく。稲も桜もともに日本人にとってかけがえのない存在であり、そんなふたつの身近な植物にお稲荷さんが関係しているとおもうと、春と秋との風情がひとつの物語で結ばれているような気がしてきて味わい深くもある。
 オオカミとキツネと桜について見てきたけれども、ここではもうひとつ、ヘビとお稲荷さんについても考察に入れたい。
 伏見稲荷大社に参拝にゆくと、授与所でお守りと一緒に災難除けのお札がおかれてある。この正方形にちかいお札には、白と黒との一対のキツネとともにおなじ白と黒との一対のヘビの姿も描かれてある。これはヘビもまたお稲荷さんであることを示しているのではないだろうか。
 縄文人というときの「縄文」とは、かれらがつかう大抵の土器に縄目模様がつけられているところからつけられた。この縄が、ヘビをあらわしているとかんがえられる。脱皮をしてあたらしく生まれ変わるように成長する、手足のない細長いその姿になにか生命力の高さを感じとった縄文人が、その姿と力にあやかって自分たちが食を得る際につかう土器に(食事とは食物の生命力を得るための大切な時間で、その食材がもつ生命力をなるたけ閉じ込めておきたい)その形を模した縄模様をつけた。それもただ描くのではなく、実際に縄をおしあてて縄の力をそのまま土器に移し込むようにしてつくった。そうすることで、その土器でつくった料理はヘビの生命力が宿ったご馳走となる。自然の恵みと人間の生活に関連をもった生き物ヘビも、縄文人にとってはまた神であった。
 ヘビは水神として祀られることがあるけれども、キツネがオオカミからきたものと推測できるようにヘビも元は龍神からきたともたどることができる。一説には、神社のしめ縄は交尾するヘビをあらわした形らしい。もっとも、ヘビについてはまだ直接資料にあたってないためここではこのくらいに留めておく。


 このようにしてあれこれの本をかじりながら手探りにお稲荷さんを見てきたけれど、ここいらで一度まとめておきたい。
 お稲荷さんとは元々自然を象徴する保食神として呼ばれていた。それが稲作の発生、発展とともに稲がその自然の力のシンボルとなり、保食神からお稲荷さんと呼ばれるようになった。そうして独立して稲や五穀豊穣の神さまとなる。神は見えない生命力として稲に宿る。春に桜のある山から田に降りてきて、稲の収穫後にふたたび山に帰る。農耕の際に益獣となるキツネやヘビがやがて稲荷神の遣いとして祀られるようになった。
 オオカミやヘビというのは、目に見えない自然のいとなみを司る保食神の、その力の一部が氷山の一角のようにしてあらわれた目に見える姿として神と認識されていたか。
 一は全、全は一、とはよく耳にする。そこには山があり海があり、生き物がいて植物がいて、そのひとつひとつも全体も保食神、いまで言う「自然」なのではないか。そういった全体一体としての保食神は、時代が下るごとにどんどんと細分化していってあらゆる神が生まれたともとらえられる。
 保食神とは自然そのもので、その自然を照らすのがアマテラスだった。『日本書紀』には、アマテラスが保食神の身体からとりだした稲を植えるという記述がある。天(アマテラス)と地(保食神)と文化(稲作)の関係がここには書かれてあると言っていい。
 お稲荷さんは後に弘法大師空海によって仏教と習合し荼枳尼天(だきにてん)とも呼ばれるようになる。伏見稲荷大社境内の稲荷山は修行場ともなり、しかもそこは女性も行のために入山できた。
 先に、内藤氏の本を参考にお稲荷さんとは保食神だと述べた。内藤氏は伏見稲荷大社にておみくじをひいた際に、そのおみくじに念写(本来書いてある記述とはちがうことばが写る)が起こり、そこに保食神と記されてあったことからそうかんがえるにいたった。これは非常に興味深くおみくじそのものに気をそそられる。
 現在ではお稲荷さんの神名は「ウカノミタマノカミ」として知られている。これは空海によって時の朝廷的にお稲荷さんの格が上がった際にこのようなあらたまった形にかわったのではないだろうか。ウカノミタマノカミとは主に朝廷がお稲荷さんを呼ぶときの名で、ふつうにその土地々々に根ざして暮らすひとたちは、「お稲荷さん」としたしみをこめて呼んでいたにちがいない。
 お稲荷さんというのは山でもあり海でもあり、そこに生きる生き物、オオカミでもありキツネでもありヘビでもあり、そうして仏でもあり、つまりはあらゆるものを束ねる習合のシンボル、融合の力をもった神ではないかと、ここではそんな仮説を立ててみる。ひとびとの衣食住を根底から支えてくださる見えない陰の力がそこには満ちあふれている。


 こうやって一応の結論はだしてみたものの、参照した本とはちがってここでの考察は妄想の域をでない。まだあたっていない資料に目を通しておきたいし、より本質にちかづくためには一にも二にも伏見稲荷大社に参拝し稲荷山をめぐる(これを「お山する」などと言う)必要がある。大宜都比売神(おおげつひめのかみ)という別名や、お稲荷さんの定説でもある、和銅四年(711)秦伊呂具(はたのいろぐ)が的を模した餅に矢を放つと餅がたちまち鶴になり、それが稲荷山に舞い降りて稲が生えたという起源とも関連してかんがえてみたい。手前勝手なこの記述にはまだまだ足りない部分が多いため、機会があればまた、この日本一全国中に祀られているお稲荷さんについて一筆したためたいとおもっている。

 

 

参考文献

内藤憲吾 『お稲荷さんと霊能者 伏見稲荷の謎を解く』  2017年・洋泉社 

     『お稲荷さんと霊験譚』            2017年・洋泉社

     『お稲荷さんと御利益』            2018年・洋泉社

上田 篤    『呪術がつくった国 日本』          2002年・光文社

安田喜憲 『森を守る文明・支配する文明』        2002年・PHP新書

金田一春彦『ホンモノの日本語』    平成28年(2016)・角川ソフィア文庫

 

※お詫び

最初に投稿した際、災難除けのお札に「白と黒との一対のヘビの姿が描かれてある」と記入しましたが、正しくはどちらも白い一対のヘビです。こちらの確認不足です。お詫びして訂正いたします。