STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

死者と幽霊のあいだ

 幽霊を信じるのか信じないのか、それは大多数のひとにとって人生を尽くしてかんがえるほどのものでもない、他愛のない問いかけとでも言えるにちがいない。信じたところでなにあるのか、信じないことでなにかあるのか、結局は人生に損か得かの話で、得とわかれば信じるし、損なら信じないだけなのかもしれない。
 幽霊もうまく利用すればお化け屋敷や心霊スポットとなりお客さんがあつまってくる。案外現代社会も幽霊とはうまく付き合っている、と言える暮らしをいとなんでいる。
 そうなると不思議なのは、お金にならない幽霊には興味がわかないひとがいたとしても、お金にもならないお墓参りとなると、多くのひとは春と秋の彼岸、盆、そうして個人の命日の度ごとにおとずれて、花を添えて手をあわせている。この習慣は昔も今もかわらない。家から仏壇が姿を消しても、墓石をよして埋葬法がかわっても、個人を忍ぶ想いは時代のちがいを越えてつづいている。
 これは、幽霊だといるのかいないのか曖昧だけれども、死者はそこにいる、死者はいると信じている、と無意識にでもおもっているからなのだろうか。みんな、昼間からどこぞの幽霊を物色するためお墓参りに来ているのではなく、言ってみれば、そこにいる死者にご挨拶をしに来ている。
 死者とはなんなのか、なんのためにいるのか、幽霊とはどうちがうのか。それらの問いかけはともかく、生きていればこそ死者になれるわけなのだから、仮に死者なんていないよ、とないものあつかいするのは、同時に生を否定することにもなり得そうにおもえる。亡くなったらそれで終わりでなんにもない、「生きていた」と記録がのこるばかりであって死者なんていない、そんなかんがえもあってそれが「幽霊なんていない」につながっている気もする。
 死者なんていない、というのは、想いびとがもう生きて触れられるようにはそこにいないという感じ方であって、もしかするとこの「そこに」という代名詞が重要とも言えるのかもしれない。だれだってそのひとの存在を自分のわかる範囲でたしかめていたい。自分が生きている以上は、相手の存在だっておなじように生きているひととして実感しておきたい、と、そんな気持で接していたい。
 それをふまえたうえで、ここで死者はそこにいると口にしたいのは、そのひとそのものがなにもかも失われてなくなってしまったわけではなく、生きている以外の別の形で、それからの接し方がこれからもある、そんな風なとらえ方もこころみられそうだとおもえるからとしておきたい。
 死者と幽霊とにはなにか決定的なちがいがあるのかどうなのか、残念ながら両方に聞いてみるわけにもいかないし、それよりは生きているこちら側がうなずけるのならちがいがあってもなくてもいいし、幽霊だって平気でいてもいい。
 生きているうちに死んだあとのことをかんがえてしまうほど無駄なことはないと言われれば返すことばもないものの、ついつい手探りしてしまうのは、人生が生きているだけでは足りないようにできているからかもしれない。