2020年から約3年ほど、ぼくはこの場を借りてエッセイなり小説なり、また詩を書いては投稿を繰り返してきた。
3年もあれば、それなりに記事も溜まった。アクセスのある日もあった。縦書きの書式に憧れて、小説や詩は縦にしたり、そんなこともやった。
ただ、改めて自分が書いた記事を読み返してみると、内容にうなずくよりも直したい箇所ばかりが目について、一旦非公開状態にして直すかどうかかんがえていた。読むひとだって蚊の鳴く程度だ。きょうはやけにアクセスが多いな、とおもったら、なんのことはない、自分がアクセスした数だった。
要は「こんなことをしていても意味がないなあ」とやる気がしぼんでいた。
自分よりも遥かに人気があり、読まれているひとたちが羨ましかった。そういうひとたちを見てから自分のブログを見る、実に安っぽくて、クリエイターもどきで、がっかりする以外になかった。
それでも、書く内容や文体を改めて考察して、またできる限り続けてみよう、と決めたのは、やっぱり書くという手段を捨てがたいからだった。
ぼくは作家だ。創造者だ。それがたとえ自称ばかりであって他人からは冷やかしの眼差ししか注がれなくても、物を書く人間であることに変わりはない。そうして、そんな人間にとって書くという手段には一切の無駄はない。全てはなにかしらにつながっていくものだ。そう信じてみたい。
「・・・・どんな小さなものにでも自分の何かは残る その自分の何であるかは神様に任して、残す努力を我々はすればいい・・・・」
以前、ここでブログを始める際に引用した堀辰雄のこのことばは、今でもぼくの背中を押しているし、ふとした拍子に口をついて出てくる。自分がなんでもいいから書けば、そこからぼくのなにかは残ってゆく。だから、残す努力さえすればいい。
ささやかに しずかに すなおに 誠実に そぼくに
これがぼくの文学さしすせそだ。これを改めて念頭におきながら、片意地はらずに淡々と書いてゆきたい。
そうして、自分以外の誰かに自分の書いたものが読まれたら、それこそがすなおにうれしい。