読みたい本というのは、おもい続けていれば案外巡り会えるものなのかもしれない。
その日ぼくは、用事があって出かけたついでに地元の図書館に寄って1冊の本を借りてきた。
本は閉架書庫にあった。
始めに館内の検索機をつかって本の情報をレシートみたいな紙にプリントした。それを受付に持っていった。
受付の司書さんは、プリントされた紙を機械で読み取ると受付奥へと消えていった。しばらくして1冊の本を抱えて戻ってきた。閉架書庫に行ってたわけだ。
司書さんは貸出の手続きをしながら本の表面を丁寧に拭いてくれた。館外にでも出たのだろうか。本日の天候は雨で、ぼくが図書館に来た頃には小雨になっていたけれどもまだ時折雨足が強まることもあった。
いつまでに返すのかが書かれたレシートみたいな紙を挟んで、司書さんは本をぼくに差し出した。ぼくはそれを受け取った。
本のタイトルは『僕が好きなひとへ』。いつか読みたいとおもってから、すっかり17年以上も経っていた。
スタジオジブリ作品のひとつに『海がきこえる』というものがある。
当時の若手スタッフたちによる作品で、93年、テレビスペシャルという形で放映された。氷室冴子女史による同名タイトルの小説の映像化であった。
ぼくがその作品を初めて見たのは高校2年生の、夏になるかならないかの頃であったとおもう。
その1年前からようやっとジブリ作品を金曜ロードショーでぽつぽつ見始めていたぼくは、図書館が主要な舞台のひとつである『耳をすませば』にえらく影響を受けて、それまで一度もいったことのなかった地元の図書館に足を運ぶようになっていた。
館内の一角には試聴スペースもあって、そこで映像を観ることもできた。
ぼくはそこで『紅の豚』や『おもひでぽろぽろ』やらと共に、存在自体は知っていたけれども内容なんて断片的にも知らなかった『海がきこえる』を試聴した。
その作品はとても爽やかで、淡い色遣いが心地よくて、観終えたあとに感動するというよりもなにかホッとするような、何気ない風景からほどよい幸福感を覚えるかのような、そんな快さを感じさせてくれた。音楽がまた良かった。
その快さはしばらくぼくの胸に尾を引いていて、これは原作も読もうと図書館で小説を探したほどだった。けれども当時原作はなかった。それでも読みたかったぼくは購入希望の申し込みを図書館にした。ぼくは数回購入希望を出したことがあるけれども、或いはこのときが初めてだったかもしれない。無理かもしれないとドキドキしていた気がする。
けれども本は無事届いた。
図書館用に透明なカバーがかかった新品の文庫本をぼくは早速読んだ。原作もまたよかった。特に文章がぼくの気に入った。映画のあの淡い感じはこの文章があってこそか、とひとり合点していたものだ。
そんなこんなで、高2の夏が主な舞台の作品に高2の夏で出会えたぼくにとって、この作品はちょっとした特別なものになっていた。
原作には続編もあって、さらにはもう1冊関連作品があった。それが今回図書館から借りることのできた『僕が好きなひとへ』という本だった。
ぼくは一度だけ、この本を立ち読みしたことがあるかもしれない。断言できないほどもう記憶が曖昧になっているけど、確かに見た気がする。
それはぼくが仙台の専門学校に通っていたときで、駅近のビルの1階にある丸善で、本棚の一角がジブリコーナーになっているところでだった。
その本棚を見つけた当初は、ジブリ関連の本がたくさんあることに驚いたものだ。田舎の本屋さんとは品揃えが段違いだった。そうしてそのなかにひっそりとその1冊の本も収まっていた。
ぼくはその本を引っ張り出して、数ページパラパラと見た気がする。そうして、文庫本にはなかった挿絵があることに新たな発見を感じていた気がする。
『海がきこえる』はもともと雑誌の連載小説として始まっていた。
毎月の連載に合わせて、のちの映像化の際作画監督を務めた近藤勝也氏が数枚の挿絵を描いていた。それが文庫化になる際に選別されたので、文庫版にない挿絵も複数あった。
『ぼくが好きなひとへ』は、作中の主人公から好きな人へのラブレターという形式で、文章の合間に近藤勝也氏のその文庫本に載らなかった挿絵も数点収められた作りになっていたのだ。
ぼくはその挿絵を見ながら、あらためて近藤氏の描く淡い色遣いの人物たち、ラフ画のようなタッチに快さを覚えた。でも、購入にはいたらなかった。当時のぼくは親からの仕送り頼みのボンビー学生で、100円でも10円でもケチりたい性分になっており、本1冊買うのにも常に生活費を計算していた。
『僕が好きなひとへ』は魅力的な本であったけれども、まあ今じゃなくてもいいだろうとそのときのぼくは判断した。1冊1000円超える本よりも安い文庫本でも買った方がお得だ。多分ジブリの本はいつでも売っていていつでも買えるだろうというアテのない謎の安心感もあったからかもしれない。まさか絶版になるなんてこと、当時のぼくはかんがえもしなかったのだ。
それに当時のぼくは、高校時代ほどではないものまだなかなか潔癖な習慣が残っており、ジブリ関連でシュリンクもされていない本を買うのには抵抗があった。立ち読みしといて自分勝手なやつだが、要は本屋でよく見かける奥の本から取る人間だった。ひとがべたべた触っている本、それもイラスト集には特に神経質だった。文庫本でさえ買った後に軽く表紙を拭くのだから、ジブリ関連はシュリンクが絶対条件だった。シュリンクする前段階でいろんなひとが触っているというのに。
『僕が好きなひとへ』は1冊しか出ていない。しかもわざわざ店員さんを読んで本棚下にある収納庫からあるかどうかもわからない在庫分を取り出してもらう勇気もなかったぼくは、いずれシュリンク付きで買えるさと勝手な期待を抱いたまま、次第に本のことは忘れていった。なにせジブリ。なくなれば常に供給されるはずだから在庫切れなんてあり得ない。
今おもえば、あのとき買っていたらと後悔するばかりだ。
いつか買える、とおもっていた本が、気づけば絶版してたことがわかったのはそれからどれくらいだったか。
とにかく、ぼくが再度『僕が好きなひとへ』の購入をかんがえた頃にはもうどこの店頭にも置いてはいなかった。東京のお店にないのだ。そりゃあない。
仕方なしにネットで中古を探してみたら、すでに定価の2倍くらいの価格で取引されていた。おいおい、なんの冗談だよ。個人が勝手に値段を決めるな。
古本というのは必ず定価よりも安くなければならない、という信念にも似た決めつけがあったぼくには、とてもじゃないけど買う気にはならなかった。手に入れた喜びよりも損した気分の方が残るに決まってる。それよりも掘り出し物的に見つかることがあるブックオフにでも当たってみよう。
けれども今にしてみれば、定価の2倍でも安い方だった。
それからこの本はどんどん値上がりしていき、いつぞや探したときにはすでに、帯付きなら1万円以上、状態が悪いものでも8000円前後はする儲かる本にすっかり化けてしまっていた。足を運んだブックオフも全滅だった。いや、たとえブックオフにあったとしても高値がついていただろう。これじゃあ海なんか聞こえやしない。
ぼくは出品されたその本の写真ばかりを眺めながら、ほとんど諦めるように検索をやめていた。多分もう触れることもないその本の存在そのものを忘れようとつとめるように。こういうときは忘れるのが一番だった。
それがどういうわけで地元の図書館にあるとわかったのか、実を言うともう正確なことは思い出せない。これといったきっかけというかいきさつがいまひとつはっきりとしていない。
ぼくはその日、自宅のパソコンで図書館の蔵書を検索していた。
我が一関市には8つの図書館があって、どの図書館にどんな本があるのかネットから検索できるようになっていた。同時に、どの図書館でも同じカードで借りることができる。
この機能はほとんど使ったことがなかったけれども、最近になってまた本を読むなら図書館から借りようという気が起こって、どうせなら自分の読みたい本が貸出できるのか調べてみたくなり再び利用し始めていた。
ちょうど『よつばと!』という漫画の最新刊が出たくらいの時期だったので、全巻を図書館から借りて読んでいたぼくとしては、その本がもう貸出可能なのか知りたかったことがあるのかもしれない。そうしてそれが他の蔵書検索につながったのだろうか。
ぼくは読みたい本があるのかを調べていくうちに、おそらくだけど自分が昔図書館に頼んで購入してもらった『海がきこえる』の文庫本が今どうなっているのか興味がわいたような気がする。本棚にあるのか、それとも閉架書庫に移動したのか、或いは他の図書館にもあるのか、そんなことを調べたかったのかもしれない。
いや、もしかすれば図書館にあの本があるかもしれないことに淡い期待をよせながら検索しただろうか。繰り返しになるけど、詳しいことは忘れてしまった。
ともかくぼくは、昔に出会った友人に会いに行くような気分で、懐かしさを感じてみたい気も手伝って、検索欄に「海がきこえる」と打ち込んでみたのだった。
すると10数件がヒットした。
案外あるものだな、と驚いたのも束の間、そこに『僕が好きなひとへ』を発見したときはそんな検索数なんかよりももっと驚いていた。唖然とした、と言った方がいいかもしれない。喜びとか、感動というよりも、ぼくはただただ自分の読みたかった本が地元の図書館に蔵書として収められていたことに呆気にとられていた。むしろ拍子抜けのするおもいだった。なにせ散々読みたかった本が随分と近くにあったのである。灯台下暗しもいいとこだった。
もちろん、本来であればぼくはこの本を購入・所持したかった。だから書店しか探したことがなかったし、絶版で新刊として買えないとわかり、やむなく中古に切り替えたときも購入を前提に探していた。だからそのときまで借りるという選択肢がすっぽり頭から抜け落ちていた。まさか図書館にあるなんて、ぼくの目の付け所もいい加減なものである。
貸出状況を見るといつでも借りられるようになっていた。
迷う必要がなかった。ぼくはどこの図書館にあるのかを見た。ちょうど出かける予定があってその図書館近くまで行く日がある。早速予約しようとして、いやでもあせらず行ったときに借りよう、と自分に言い聞かせ、それから別の本の検索を始めた。
ようやっとぼくにも、海がきこえてきたようだった。
ここまで来て誰かが借りていたらどうしよう、という一抹の不安はあったものの、無事に借りることができた。
「──海がきこえる より──」と青字で小さく書かれた題字の左横に、タイトルである『僕が好きなひとへ』が青黒い字で大きく書いてある。さらにその左横には氷室冴子女史と近藤勝也氏の名前が「&」記号で繋がっており、表紙の真ん中にはカバンを膝に置きながら面白くなさそうな表情で頬杖をついて座っているヒロイン武藤里伽子のイラストが描かれていた。いかにも里伽子らしい雰囲気が伝わってきた。
おれはいまジツブツを手にしているのかあ、と表紙をまじまじ見ながら、じわじわとぼくの胸の内にその本を手にした嬉しさが込み上げてきた。それは体全体で喜びを表現したくなるものとは違う、乾いていたものに水がゆっくり染み込んでいってやがてじんわりと染み出してくるような心地の嬉しさだった。言ってみれば、出会ってから17年もの間ぼくはこの本に片思いしていたわけだ。借りた本とか、表紙に図書館用のカバーがついているとか、そんな細かいことはどーでもよかった。
この本が人の手に触れられるのは、何日振りか何ヶ月振りか、或いは何年振りにでもなるのだろうか。世間ではすっかりプレミア価格となって出品者の肥やしとなっていることなど知らずに、この本はずっと喧騒とはかけ離れた閉架書庫のなかで静かに過ごしていたのかもしれない。売り物であれば値はつくけど、図書館の中では価値が価格に付随する世界観からは解放され、ただ一冊の本そのものとして読みたいという読者のもとに出かけてゆく。そういった環境の中の、さらに普段は人目につかない閉架の片隅にあったこの本は、世間との扱われ方の相違も相まってか、ぼくにはとても静物らしい書物に感じられた。
本を読む癖で、始めに奥付けを確認すると第1刷だった。いや2刷以降があるのか知らんけど、この本は刊行された当初からこの図書館に来ていたのかもしれない。だとしたら尚更盲点だった。ぼくがこの作品を知る前からすでにあったのだ。
表紙をめくると、当時ついていた赤い帯もちゃんとテープで貼られて残っていた。
30年経っているだけあって、ページをめくる際に親指を添える部分は薄汚れていたし、最初の方のページに破れている箇所もあったものの、全体的に綺麗な印象だった。
ぼくは少しばかり本に目を通したのち、残りは家に帰ってからのんびり見ようと図書館を後にした。
結果的には、あっさりとした読後感となった。
この本は或る種の絵本のような作りで、『海がきこえる』の本文を抜粋した数行が数ページごとに載っており、それを包むように近藤氏のイラストが彩っていた。絵のある詩集とも言えるし、イラストそのものが詩として描かれているとも捉えられそうだった。
そうして最後に氷室女史の書き下ろしが短く載っていた。それは別に、その書き下ろしを読んだからより作品への理解が深まるとか、新しい発見があるとか、そんなことは全然なくて、本当にただの、悪い言い方になるけどヘーボンな文章だった。書き下ろしというよりも、単なるおまけやあとがきに近いかもしれない。けれどもそういった特別感のなさ、力みのない内容がとてもよかった。あー、『海がきこえる』っぽいなあ、とぼくは10数分で読み終えた本に対してしみじみと親近感を抱いた。
プレ値のせいで感覚がマヒしていたけど、本来この本も作品もそのくらい身近なものなのだ。たまたま絶版して希少性が高くなっただけで、中身はありふれた、モノローグ的で淡々としたイラストでありことばであった。もちろん、いい意味で。
あっさり読めた要因として、この本を借りる前に刊行されていた『海がきこえる THE VISUAL COLLECTION』という本の影響もあるとおもう。
これは『海がきこえる』連載当時に使用されていたイラストが、おそらくは全て収録されている書籍であった。そればかりかアニメーション化する際の設定資料も収められており、ようやっとのことで出たまさにファン待望の1冊であると言える。
この本も、刊行当初は「シュリンクされてるのがほしいからネット注文はなあ・・・・都市部の書店に行ったときにでも買うかどうか」と二の足を踏んでいるうちに売り切れてしまい、おれはまた同じ過ちを犯してしまったのかと後悔したものだった。その後無事第2刷が刊行されたので四の五の言わずにさっさと買った。
もともとぼくが『僕が好きなひとへ』を読みたかった理由が近藤氏のイラストであったので、それがその本のおかげで叶った。それも『僕が好きなひとへ』以上にイラストが載っているのだから、あっさり読めたというよりもイラストについては物足りなさも感じないではなかった。最新型のスマホを使った後に初期のスマホに触れるみたいなものか。今となっては内容そのものに心からときめくような感は正直なかった。
それでもぼくはその本に出会えて、読むことができてよかった。
それはその本そのものに感謝するというよりは、その本に関する自分の記憶が懐かしく心地良いものとして感じられていたからかもしれないし、ずっと読みたいと抱え込んでいた気持を消化できたからかもしれない。端的に表せば、報われた、とでもいうのだろうか。まだ新刊で買えるはずだった専門学生時代の、ついぞ買うことのなかったあの選択への後悔が、忘れるでも諦めるでもなくいつの間にか消えていたことがありがたかった。
ぼくはようやく『僕が好きなひとへ』を「プレ値と苦味を含んだ曰く付きの本」から、いつでも手元に置いて読むことができる自分の好きな本として接することができるようになったのだった。長かった片思いはひとまず結ばれたわけだ。
図書館、ありがとう。
都会の図書館では借りられる冊数に制限があったり借りられる期間も2週間程度であるところが多いとおもう。
一方の一関市内の図書館は3週間まで読むことができる。田舎はのんびりしたものだ。
今回借りたのはこの1冊のみなので、ぼくは貸出期間を目一杯使いながら、その間だけこの本の持ち主となって、折りに触れて開いてはこの本の魅力についてじっくり味わいたいとおもっている。