STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

悪夢の在り方

 今年夏のジブリ映画『君たちはどう生きるか』については、さまざまのひとが、賛否両論、思い思いの考察を語っていた。
 ぼくの友人たちが出した結論としては、絵コンテ段階でやめておいた方がよかった、というものだった。その際の例えが面白かった。
 話の内容はすっかりうろ覚えになってしまったけれども、音楽をやっているその友人たちによると、『君たち』はクイーンとローリング・ストーンズイーグルスによって作られたビートルズの楽曲みたいなものだそうだ。
 なまじビートルズメンバーと接触があり、実力もあるだけにビートルズっぽいものは完成したものの、ビートルズ本人の監修が入っていないためなんだかチグハグにできている。デモテープはビートルズで、ギターはちゃんとリッケンバッカーなのに、独奏が入っていたり、余計なものがついていたり、なんだか妙な完成品。そんな例えだった。
 つまりはそんな風にして、宮﨑駿(今回はなにをおもったか『崎』ではなく『﨑』の字だ)が想像の赴くままに描いた絵コンテを、あとは勝手にやってくれとアニメーターに丸投げしたかのような今回の映画である、という見解だった。アニメーターの方も実力もあればジブリと長い関わりがあるだけに、ジブリ映画風の絵柄やカット割を効かせているものの、では駿らしいかというとそうではない。声優陣もなんだかオイシイところだけをとってつけたような、畑違いの印象。出し惜しみしておいて出たパンフレットも、なにこれ? という作り。なにも新しいことが書いてない。
 ジブリ映画ではなく、ジブリっぽくカッコつけてみた、そんな感じの映画であった。
 映画公開の後、三鷹の森ジブリ美術館で『君たち』の絵コンテの展示があったらしい。
 監修したのは駿の息子、吾郎さんで、その展示を駿が見に来たとき、一言「悪夢を見ているようだった」と残していったそうだ。おいおい駿、お前の描いた絵コンテだぞ。無責任な発言だ、と友人たちも呆れていた。
 ビートルズも今年、ジョン・レノンが残したデモテープを元にAIの助力を借りて新曲を発表した。こちらは概ね好評のようで、つい『君たち』との在り方を比べてしまった。
 ぼくにとっては、宮崎駿の最後の作品は『風立ちぬ』であり、『君たち』は宮「﨑」駿のデビュー作なのだ、と結論づけた。ジブリの他の作品にも、脚本は駿だけど絵コンテや監督は別の人、という映画がある。それと一緒で、今回の映画は駿があまりアニメーション制作に入り込んでいない気がした。この邪推が正しいと仮定して、ではなぜそんな方法を取ったのか。
 駿も、それからジブリも、すっかり歳をとったからだろう。ぼくは友人たちの粋な例え話を聞きながらふとそうおもった。
 それに、どうせならエンディングは『君たちキウイ・パパイヤ・マンゴーだね。』がよかったなあ。・・・
 

ナナチが来た日

 ナナチが来た。
 
 『メイドインアビス』という作品がある。WEBコミックガンマというところで連載されている漫画で、2度アニメ化されている。劇場版も公開された。
 内容は他に譲るとして、その中にナナチというキャラクターが出てくる。ウサギみたいな見た目の、愛嬌と味のあるキャラだ。
 このキャラの等身大フィギュアが出ることを知ったのは、去年(2022)の7月くらいだったろうか。
 ちょいとサイトを調べると、4分の1スケールとともに受注生産という形で予約を受け付けていた。お一人様1個迄、色々な角度からの写真が説明付きで載っていた。
 その存在を知ったときはおどろいたものだった。
 それというのも、ぼくはこのキャラの等身大フィギュアでも出ないかなあと淡い期待を抱いていた矢先でもあったからだった。この見た目は等身大でこそ活かされてくるはずだ。そんな風におもっては想像の中でその等身大を形作っていた。
 綾波レイ等身大フィギュアが、同じ会社から受注販売されているのを見ていたからというのもあった。綾波があるなら、ナナチがあったって良さそうなものじゃなイカ。なんの根拠もないけど、とにかくあったらいいなをぐるぐるかんがえていた。あったらいいなは形にするべきだ。
 それに当時は、手に入るナナチのフィギュアが軒並み売り切れていて、買おうにもプレミア価格になっていた状況もある。ぼくは基本定価以上で商品を買うことに釈然としない者なので、この現状には不満があった。欲しいけれども、買えないし買いたくない。どうせ高いなら、もっとちゃんとした、それこそ等身大フィギュアでも━━、そのおもいが現実のものになったのだから、おどろかないではいられなかった。
 販売期間は7月22日から10月31日迄、この約3ヶ月間の内に予約すると、来年の秋ごろ届く予定となっていた。
 当たり前だけども、スケールもデカければ値段も張りに張っていた。そりゃあ車を買うよりかは安い方だけど、中古車並みの価格である。ぼくは中古車が自分の部屋にデンッと構えているところを想像した。うん、入りきらん。
 でも、ナナチなら入る。
 買うっきゃない。
 支払い方法が一括のみであったり、キャンセルができないことであったり、そこいら辺で二の足を踏んでいたものの、こんなご縁を逃してはいられない、それに現実味のある手に届く値段だ、いざとなれば金融機関でナナチローンを組めば良し、とぼくは意を決して予約ボタンをポチリと押した。ワンクリックで高価なお買い物ができるなんて、世の中、狂ってるぜ。それでも、憧れは止められねぇんだ。
 そんなこんなで、ぼくは予約をしてあとは届くのを待っていたのだった。
 ・・・家族には、なんて目で見られるのだろう。・・・
 
 11月22日。水曜日。
 前日の電話通り、2時半頃、ナナチを載せた配送業者のトラックが家に来た。
 「仙台ピアノサービス」と荷台には書いてある。確かに、そのナナチはピアノみたいにデカく、割れ物要注意だ。どのように配送されるのか気になっていたけど、こういうのはちゃんと専門のひとたちがいるらしい。
 どうやら盛岡支社から出発してきたらしかった。片道2時間。いやはや、ご足労おかけいたします。
 配送に際しては、希望日や玄関の大きさなど、販売会社の方から事前にメールが来ていたので、間口の寸法とともに、せっかくなら、とぼくは良縁を感じさせる良い夫婦の日にお願いしていた。その通りになったことは素直にうれしかった。
 昔は友人にフィギュアと結婚する冗談を言った気味悪く青臭い日々があるけれども、まさか本当に1分の1フィギュアを購入する日が来ようとは。
 間違いなく、これまで買ったフィギュアの中の最高額であった。今乗ってる車よりも高いって、及川はん、あんたの金銭感覚どないなっとんねん。
 ふたりの配送業者の方とともに、運搬の経路を話し合った。
 それから、どデカいダンボールがトラックから我が家へと運ばれた。ダンボールにもしっかり、「メイドインアビス ナナチ 1/1スケール等身大フィギュア」と明記されている。業者の方にもすごいですねぇ、とほほえまれる。まあ、1分の1ですからね。お兄さんもナナチを運ぶのはこれが初めてであろう。
 ダンボールを降ろして、切れ目に沿って封を切れば、観音扉でご開帳というわけだ。
 ただその瞬間は、部屋の間取りや運び方やらの関係でぼくからは拝めなかった。
 別に作業を逐一監視する気はなかったので、ぼくは無事部屋まで到着したのを見計らってあとは居間で組み立てが終わるのを待っていた。
 作業は30分くらいだっただろうか。
 時折業者のお兄さんたちのどうするかこうするかという話し声を小耳に挟みながら、破損のないよう丁寧に行なってくれているんだなあとしみじみしているうち、すみませんと呼ばれた。
 ダンボールと壁の間をすり抜けて行ってみると、そこには台座に降ろされたナナチがいた。いや、ホントにいた。
 あとは耳を取り付けるだけで、とりあえず傷や破損がないか確認してほしいと言う。ぼくは足元から徐々に目線を上げながらそれらしいものがないかチェックした。それらしいものなどない。お兄さんたちの手練の賜物である。
 台座の保護フィルムが剥がされ、耳がつき、ついにナナチが完成した。
 WAO! ナナチである。どこから見てもナナチである。らんまは2分の1。ナナチは1分の1。おいおい、こいつぁすごいぜ。笑いが止まらないぜ。
 業者の方から説明書を受け取り、サインをして、作業は無事終了した。
 お兄さんたちは発泡スチロールの破片をくまなく回収しようとしているので、あとは自分でやりますと伝えた。ぼくはこのおふたりに感謝しかない。ピアノよりは軽く小さいだろうけれども、神経を使う作業は大変だったはずだ。
 それでもお兄さんたちは嫌な顔ひとつせず帰って行った。こうして運ぶひとがいてこそナナチは成り立つのだ。
 ここからはナナチタイムである。
 ぼくは何度も自分の部屋に入り、そこにナナチがいるその存在感を噛み締めた。なにせ去年から想像を膨らませていたフィギュアがそこにデン、と構えているのだ。ケタ違いの迫力である。想像が現実のものとなった喜びで今はいっぱいだった。恐るべし等身大、と言ったところか。横向けば、ナナチ、振り返れば、ナナチ、となりのナナチ、すっかりそっくり、そのまんまナナチ。ナナチよ、お前はどこのナナチじゃ。
 小学生レベルである。
 フィギュアはひとを童心に戻す。なにせぼくのテンションは箱から取り出されているときからおかしくなりっぱなしだった。こんな買い物、多分もうないだろう。家がナナチを運べる間取りでよかった。
 そんなこんなで、ぼくのその日は暮れていった。
 
 今もナナチは順次配送されていて、全国のあちこちにお披露目されている。全都道府県にまで及んでいるかもしれない。アーバンナナチにローカルナナチ。みんなどんな風に設置しただろう。2階に運ぶとしたら、きっと一苦労かかることだろう。ぼくは日本中にナナチが立っている姿を想像した。
 そんなナナチレポート。

或る日

 ぼくの家ではじいさんの代から付き合いのある車屋さんがいる。車検やらオイル交換やら、何かあればそちらに頼んでいる。
 
 今度ぼくの住んでいる地域にも雪マークが出始めたので、そろそろだな、とその車屋さんにタイヤ交換に行ってきた。雪国なら必須の恒例行事だ。
 電話を掛けて予定をとり、冬タイヤの状態を確認してから出掛けた。
 車屋さんに着くと大型トラックや軽トラやら他のお客さんの車が止まっている。いかにも町の車屋さん、という感じの、忙しさが伝わってくる空気感があった。
 ここで車を預かっている間、事務所で奥さんとしばし談笑をした。もうそれなりに年を重ねてはいるけど、今でも現役バリバリだ。電話もこのひとに対応してもらった。
 熱々のコーヒーをいただきながら、めっきり冷え込んできた今日この頃のことなど、ぼくらは日本人らしく時候のあいさつから話し始めた。もっとも、本日の日中は11月らしくもないぽかぽか陽気だったけど。
 奥さんは以前やってきたお客さんに、出されたお茶がぬるかったと注文をつけられたこと話してくれた。まあ、親しい間柄だからこその遠慮のない申し出でもあるだろうけど、話し終えた後「人間は口があるからいけないねえ」と奥さんは苦笑いしていた。うーむ、捉えようによってはなかなか深い経験談でもある。ぼくも口は慎もう。
 それから奥さんの家で飼っている猫の話題へと移った。朝起きると見当たらなくて、どこだどこだと探していたら、なんのことはない、ストーブの近くで暖をとっていたらしい。猫らしいエピソードでほほえましかった。途中、カレンダーを配りにきたお付き合いのある会社の方が来る。奥さんと軽くあいさつを交わす。師走が近づくとよく見かける光景だ。
 話はぼくの姪っ子の近況に移り、そこから奥さんの子供時代や東京就職時代に変わっていった。話し相手がいると、いろいろと思い出が口をついて出てくるものだ。思い出はことばをほしがっている。奥さんは懐かしそうに身の上話を話してくれた。
 そのうちにタイヤ交換が完了した。これで我が車も冬仕様。雪道なんて怖かない・・・とは断言できない。東北の雪道は舐めらたらアカンのだ。ツルリとやられる。
 ではまた今度、とぼくは奥さんにお辞儀をする。奥さんは事務所から出てきてぼくをお見送りしてくれる。まだまだ元気でなりよりだ。ぼくはウィンカーを出して車を走らせる。
 ちょっとはタイヤのグリップ力が増したかな・・・とわかるわけもないことを感じとろうとしながら、ぼくはオカンに頼まれた用事をおもい出す。
 
 そんな他愛もない一日である。
 

猫のこと

 明朝、飼い猫が死んだ。
 母が夜中過ぎに苦しそうに鳴く猫の声を聞いていたという。そうして父が起きて来たとき動かなくなっているのを発見した。まだ体は柔らかかった。朝のうちに庭へ埋葬した。
 ぼくとの付き合いは8年ほどだっただろうか。
 ぼくが実家に戻ってきたときにはすでに家にいた。ペルシャ猫というのだろうか、あんな感じのふさふさした毛で覆われていた。我が家ではなんだかんだ、野良猫から始まった猫との暮らしが今日まで続いているけれども、どことの雑種か、そんな猫は初めてで珍しかった。
 それがこの頃は毛もすっかり抜け落ち、体をさわれば骨と皮ばかりが感触として伝わるほどやせほそっていた。頭はすっかり皮がのぞいていた。当時の面影が見当たらないくらいの衰えようだった。
 それでも、ひとを見かけると小走りで近寄ってきてはまだ元気な声でエサをねだっていた。特に父がエサをあげていたので、父には一段と懐いていた。孫にあたる子猫ともよくじゃれていた。
 この冬は死にそうにないな、と家族で話していたものの、こちらのそんな目算は外れてしまった。あんなに毛で覆われてたやつが、こんなにもほっそりとするのだから、老いとは不思議なものだった。
 動物というのは、死というものをぼくらに教えてくれるとても身近な存在とも言えるかもしれない。
 ひとよりも早く生まれて早く死んでゆく。ぼくらからしたらその短い一生に、その死に相対する度に、なにかしら感慨にふけるものを胸に抱く。自分が持っているいのちを再認識させるからだろうか。ぼくとは比べものにならないほどに猫好きの方なら、その死への想いも一入だろう。犬好きでも、ウサギでも、動物が好きなひとであれば、誰であれ、影響を受けないではいられない。ぼくがこうして、猫のことを書いているように。
 夕方にもなると、その猫がいないことをなんだかようやっと自覚する。そんな自分がいる。死はそんな風に、後からじわじわと伝わってくることもある。その猫との思い出があれこれ頭に浮かんできて、つい懐かしくなる。
 11月18日が、その猫の命日だ。漱石にちなんで、名前をつけることはなかった。 

バナナジュース

 ミキサーを新調すると、なぜかバナナジュースが作りたくなるものだ。
 いつだったか、近所でとあるお店が閉店することになった。
 例にもれず閉店セールが行われた。
 段階的に割引分が増えてゆき、最終日はなんと9割引き。そこまでくるともうドン引きというか、商品なんて空気くらいしかない気がした。
 ともあれ、ぼくはその減点方式みたいなセールにいともたやすくつられて、まだ3割引きのときに行ってきた。
 5割では品物もガクッと減り、さらにはお客さんで大混雑するに違いない。まだ傷が浅いうちが買い時だ、と算段したわけだ。すっかりお店側のおもうツボであった。
 計算外だったのはお客さんの数だった。
 3割引きであってもすでにごった返していた。菓子類はすでにもぬけの殻、飛ぶように飲料水がさばかれていた。閉店セールは人を鬼にする。
 とにかくまだお店にあるもので、ほしいもの、使えそうなものをかごに入れていった。
 そのなかのひとつに、ミキサーがあった。
 正直購買欲なんて抱いてなかったけれども、いっしょに来ていたオカンに「あんた欲しいとか言ってなかった?」とささやかれると、確かにそんな気がしてきて、どれひとつ、と割引にもつられて手に取っていた。これぞ割引マジック。だが、言っとくがオカンよ、だれが支払うかご存じですか。
 そんな経緯で我が家にミキサーが来た。
 ミキサーなんて、そもそも何十年ぶりに買い替えたのか、というか最後に使ったのはいつなのか。思い出せる者など生きてはおるまい。
 最近ではジューサーやらブレンダーやらとも言うらしい。道具もこじゃれたネーミングで言われたい時代なのだ。
 それはおいといて、ぼくにとってはミキサーと言ったらバナナジュースなので、せっかくなら作ってみよう、と数日後材料となるバナナやら牛乳やらを買ってきた。
 おそらくきっかけは『よつばと!』という漫画にある。
 たしか第15巻で、主人公の女の子(よつばちゃん)がバナナジュースを作る回がある。
 妙に作り方に詳しい、むしろうるさい人がいっしょに出ていて、それが印象に残ったのか、一時期ぼくはセブンのバナナオレを狂ったように飲んでいた。まさにゴリラの一歩手前だった。ウホッ。
 しかし任期満了であるのか、セブンからそのバナナオレは突如姿を消してしまった(ただ、のちに復活した、ウホッ)。
 バナナオレは幾多のメーカーから販売されているけれども、手軽に買えるものでは、ぼくにとってセブンのが一番だった。あの濃厚さはやみつきのお墨付きだったのにがっかりだった。
 いや漫画読んだらふつうは作れよ、とつっこまれそうだけど、当時のぼくはミキサーをまだ買う気がなかった。洗うのが面倒というのがなによりの理由だった。バナナは洗わなくても食えるのに、なぜジュースにした途端洗う手間が増えるのか。
 まあ、いつかミキサーが値引きでもしてたら、そのとき買っていっちょ作ってみるか、と「いつか」に投げやりしているうちに忘れていたけど、オカンの催促も重なり、そのときが来たのである。
 ぼくは材料を机に並べた。
 バナナに牛乳、ほかにはちみつと氷。
 たったこれだけしかない。バナナジュースを作るのに特別なものなど用意する必要なんてないのだ。
 付属のレシピ冊子を見ながら早速とりかかった。
 バナナは1、2センチ角に切る、と書いてあったけれども、面倒なので手でちぎった。それから牛乳を200ミリリットル入れようとしたら、すでにバナナを入れていたのでもうミキサーの目盛りは当てにならない。知らないうちに手順を間違えていた。
 ええいままよ、男は黙って目分量、とぼくはテキトウなところまで牛乳を注ぎ、はちみつも大さじ1杯をうっちゃってダボッと入れた。氷くらいは説明通りちゃんとふたつにした。
 いよいよミキサーを回す番になり、ようやくぼくはミキサーの取扱説明書に真面目に目を通した。なぜか機械の扱いは説明書通りキチンとやりたかった。
 最初に数回短く動かしてから、あとは30秒くらい動かすらしい。ぼくは言われた通りにボタンを押しながら、攪拌されゆくさまを見ていた。
 人間30秒もあると、どーでもいいことでも無意識にかんがえ始めてしまう。ぼくは秒数を数えながら、なぜバナナはバナナというのか、どうしてゴリラと言ったらバナナになったのか、とぐるぐる頭に疑問を浮かべていた。
 ともあれ、秒数を数え終えるとバナナジュースは完成した。
 そのまま口をつけて飲むのも素行が悪い気がしたので、とりあえずグラスに注いだ。盛り付けも何も気にする必要がなくていいのがこういったミキサー調理のいいところだ。
 粘り気のある液体がグラスを満たす。いざ、実食のときである。
 そう言えば、『よつばと!』の中ではバナナジュースを初めて飲んだよつばちゃんが一言「せかいいちおいしい」と実にいい表情で言っていた。
 果たして、自分が初めて作ったこのバナジューはどうなのか・・・、ぼくはおもわず腰に手をあてがいながら、グビッと一口飲んでみた。

 せかいいちうまかった。