STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

レシート1枚分の文学

 何かの拍子に、うちのオカンが一枚のレシートを見つけてきた。
 どこかの引き出しからだったか、普段使っていなかったカバンの中からだったか忘れたけれども、とにかくオカンが、変なレシートが出てきた、と騒いでいた。
 どうせ大したものじゃないだろ、と白けながら覗いてみると、それはぼくがまだ東京にいた頃、旅先で買い物をしたレシートだった。すなおに驚いた。
 一体今の今までどこでどうやって隠れていたのだろう、それがどうして今出てきたのだろう・・・そんな風に戸惑いながら、ぼくはレシートをまじまじと見た。
 真ん中から内側へ折りたたまれていたからか、印字ははっきり残っていた。
 場所は広島県だった。
 日付は2016年11月5日。おみやげ街道福山店でお菓子を買っている。合計は3,708円。当時住んでいた東京を離れるまで、あと10日ほどの頃だった。
 この時は東京生活の最後に旅をしておきたいとおもい、岡山県の倉敷をはじめ、広島の福山、尾道鞆の浦、そうして帰りに京都と、確か4泊5日で巡っていたのだった。
 旅は天候に恵まれた。最後の京都では多少雨に降られたものの、それ以外は晴天に次ぐ晴天で夕焼けも綺麗だったことを覚えている。鞆の浦では、宮崎駿が借りた家を探しながらお昼に雑穀米のカレーを食べた気がする。当時のぼくは素人なりにもフィルムライカとポラロイドに凝っていたので、夢中で風景を撮っていた。
 実家の岩手に帰ってしまったら、西日本への旅は簡単にはできなくなってしまう。だったら今のうちに、それも思い出に残る形の旅にしたい、そう、最後の思い出は旅にしておきたい━━、後継やら親の面倒やら、そういったものの引力を受けて、それも反抗する勇気もいまひとつ出ないままなるように決めたUターンが、その不完全な東京生活への別れの寂しさが、当時のぼくの胸にはしこりとしてつっかえていた。
 自分自身の意志力のなさや、「仕方がない」という感情へのやるせなさをどうにか別の方向へ持っていこうとして、それと実家や親戚や近所へのとるにたらない鬱屈した反抗として旅に出た。多分、きっとそうだった。
 本当に、お前は今更現れて何を訴えるというのか、今のおれでも笑いに来たのか━━、全体的に薄く黄ばみを帯びたレシート一枚で、こんなに思い出がよみがってくるのだから、それは不思議なことだった。そうして、懐かしかった。
 思い出って、いったいなんなのだろう。そんなバカみたいなこともかんがえてしまった。思い出したところで、取り返しのつくものでもないのに。
 今では一人暮らしから家族暮らしが当たり前になり、お金が貯まればホイホイ電車に乗っていた当時がウソみたいに、旅に慎重になってしまった。いや、当時からして出掛けすぎだったのかもしれない。それも何かを得ようとするのではなく、ただ出掛けたくて出掛けていた。若気の至り、と指摘されればその通りだ。でも、もっとたくさん旅をしたかったなあ。
 ぼくはレシートを再び折りたたむと、申告用の保存箱とは別の入れ物に、そのどこへも申告する当てのないレシートを入れておいた。まさか思い出が追徴課税されることもあるまい。保存期間は、とうに過ぎている。 

幼い日の記憶

 鶴の舞橋という日本一長い木造の橋を見てみたくなって、ぼくは青森に旅に行ったことがあった。
 岩手からまずは新青森駅まで新幹線に乗り、そこからは在来線の奥羽本線に乗り換えた。川部駅でまた五能線に乗り換えた。
 ぼくが降り立ったのは陸奥鶴田という駅だった。駅舎の造りも、どこか羽を広げた鶴をおもわせるおしゃれな見た目だ。
 鶴の舞橋が観光名所であるためか、あちこちで鶴をあしらったデザインを見た。
 コインロッカーであらまし荷物を預けて、ぼくは旅の目的地を目指した。
 本来なら、そこへは車で行くべきなのだろう。なにせ最寄り駅から歩いて1時間弱。道路も、歩道が確保されているわけでもなく、ぼくはしょっちゅう車の邪魔になった。
 それでも、自分の歩調で少しずつ移ってゆく光景は、旅情をそそられるものがあった。さすが青森と言わんばかりに平地にはりんご畑が広がり、その向こう側に続くように岩木山がそびえていた。そびえる、というよりは、ゆったりとやわらかく佇んでいる。
 りんごの枝は道路にまではみ出さんばかりで、収穫間近の赤い実が日の光を受けながらたくさんなっていた。
 そんなりんごの町を歩いて3、40分ほど立った頃だろうか。
 通路右手、奥まったところに校舎のような2階建ての建物が見えてきて、ぼくはふと足を止めた。
 それは緑色の屋根をした木造の旧小学校だった。
 「鶴田町立水元小学校」とプレートには書いてあった。今は伝承館として機能しているらしい。
 木造の校舎というのは、そこにあるだけでどこかなつかしさをそそられるものだ。時の長さと木のあたたかさを感じさせるからだろうか。それが旅先で偶然発見したものであれば、なにかその感慨もひとしおだった。
 ぼくはその校舎の雰囲気につられて、メインディッシュの橋の前に寄り道することにした。
 校舎の入り口を開けると、受付のおねいさんが簡単な説明をしてくれた。
 ここは19年前まで児童がいたとのことだった。その後別の小学校と合併し、廃校となり、今は伝承館として開放されているとのことだった。
 ぼくは順路に従い廊下を歩いた。
 往時には子どもたちの活気に満ち溢れていた校舎も、役目を終え、定年退職した今では、ひとり分の歩く音だけでもよく響いて聞こえた。天井から吊り下がっている「静かに」と書かれた看板が、なんだか余計に室内の静けさを、むしろ寂しさをも感じさせるのだった。
 ぼくはいつしかなつかしさを抱きながらゆっくりと歩いた。それは自分が小学生だった頃をおもい出していたということよりも、幼い頃に見ていたテレビ番組の影響が大きい。
 ぼくがまだ5、6歳の頃、『ポンキッキーズ』という番組があった。
 そこでは毎回エンディングで、米米CLUBの『Child's days memory』が使われていた。その際或る小学校の木造校舎が映像として流れていて、それが印象に残ったのだった。
 当時のぼくは、エンディング前にやっていた『機関車トーマス』を見んがために『ポンキッキーズ』を見ていたので、そのエンディングはおまけみたいなものだった。
 というか『機関車トーマス』の時点でちょうど保育所に行く時間と重なっていたこともあったので、エンディングは父に録画してもらったビデオでたまに眺める程度でしかなかった。話と話の間に流れるCM程度の認識だったかもしれない。
 それが不思議なもので、大人になってからふとその曲をおもい出しふただび映像を見てみたら、その歌詞の内容とともに、流れてくる校舎にとてもなつかしい気持を抱いてしまっていた。
 どうしてもっと早くにこの映像の魅力に気がつけなかったのだろう。
 その映像によく似た校舎にいることで、まるで自分がその映像の中にいる錯覚を覚え、それが余計になつかしい感情を引き出してしまうのだった。まさか旅先でこんな体験ができるだなんておもってもみなかった。そもそも小学校の、それも木造の校舎に入れるなんて経験は普通できない。そういった突然の出会いであればこそ、すなおにぼくのこころがありのままの感情をわかせることができたのかもしれない。
 いや、もっと単純に、自分が大人になってからようやくその良さに気づいた『Child's days memory』の映像を我が身で追体験できるような気がしたことがうれしかったのだ。それが突然のことだけに、余計に嬉しかった。
 ぼくは『Child's days memory』の映像を真似しながら、自分でも教室内や廊下の動画を撮っていった。室内は陽の光と静けさとで満ちており、この静けさに溶けてゆくように、当時食い入るように『ポンキッキーズ』を見ていた幼い日の記憶が自然とわいてくるのだった。
 同時に、とても穏やかな心持に包まれた。なんというのだろう、ようやく「もっと早くに・・・」という後悔をなだめることができた心境になれたのだろうか。
 蛇口の影、階段の手すり、机の傷、黒板消し━━、そんななんでもない風景の一部のようなものが、なんでもないものだからこそ、愛おしいものに感じられた。それらのものが静謐な空気の中で眠っている様子は、とてもこころ落ち着く光景だった。
 ぼくは終始顔がほころんだまま、30分ほどかけて木造校舎を歩いて回った。
 
 小学生の頃はあんなに大きく感じた校舎も、中学校に入ってから来てみたらひどく小さいものに見えたものだ。昔、そんな体験をした。
 一体どういった感覚の作用がはたらくのだろう。端から端まで渡るのに随分と長く感じた廊下なのに、その長さにおどろいていたのに、大人になってみたら、なんてことはない短さで、当時の自分の感覚が逆に不思議だった。児童に合わせて建てられた校舎の寸法に、自分がそれだけ合わない大人になったからだろうか。
 建物を出てから晴れやかな空を見上げたとき、そんな突拍子もないことが頭に浮かんできた。木造校舎のたたずまいと真っ青な空にあてられたのかもしれない。おかしなことだった。
 ぼくは不可解な、でも全然不快ではないそんなおもいを胸に、本来の旅の目的地、鶴の舞橋へと再び歩いていった。
 
 ・・・まあ、橋は工事中だったけど・・・

年の瀬雑記

 12月21日。
 仕事の休みを利用して、郵便局へ荷物を出しに行ってきた。不要となった私物を段ボールに詰めて、買取をお願いしたわけだ。次回東京に行くための旅費の足しになれば、と願った。査定結果がわかるのは来年になるかもしれない。
 
 その際父にも用事があったため一緒に出かけた。2、3年振りで知り合いの家に向かったのだった。
 すっかりご無沙汰していたため、父もぼくも、そのひとの家に向かう道がうろ覚えになっていた。
 国道から脇道に逸れると、あとはもう曖昧な記憶をなんとか引っ張り出して進むしかない。が、目の前に実際の道路があれば意外におもい出せるもので、多少四苦八苦しながらもそのひとの家に迷わずつけた。家で作った干し柿を渡し、年末のあいさつとした。
 
 家路に着く途中で「1221」のナンバーを見た。
 
 家に着くと、近くに住む姪っ子たちがやってきた。なぜか知らんが団子を作りたいという。
 あいにくと団子粉は切れていた。きのう、家のじいさんの命日であったからその際に使ったのだ。なかなかタイミングが悪い。
 団子は作れないと言うと、姪っ子たちは納得いかない様子だった。
 ほしいのではなく、作りたいと言っているのだ、ここはやらせてあげないと、とぼくはなんだか妙に大人ぶることにして、近場の商店で買ってくることにした。
 車はさっき乗った乗用車ではなく、たまには動かさないと、と軽トラのエンジンをかけた。そこで気づいたけれども、この軽トラ、10月半ばに車検に出して以来乗っていなかった。まあ、かかってよかった。
 じいさんが使い始めてから20年になる軽トラで商店に向かった。車体には日に焼けた枯葉マーク。20年で約3万キロ。農作業用の車なんて大体こんなものなのか。
 団子粉を買うついでに人数分のプリンも買った。
 
 再び家に帰ると、お昼だというのになぜか両親は掃除に勤しんでいた。我が家ではなぜかお昼が迫るとなにかしら始め出す。結果お昼がいつも遅れる。
 姪っ子たちはオカンと団子を作った。色々な形を試したようだった。ぼくはカップ麺のうどんをすすった。
 
 夕方。
 三鷹に住んでいる友人から荷物が届いた。
 この間東京で会った際、今度三鷹の森ジブリ美術館に行ってくると話していたので、ちょっと期待していた。
 中を開けてみると、ありがたいことにジブリのグッズが入っていた。サギ男のミニフィギュアにパズル。サギ男のフィギュアはさっそく机に飾った。名プロデューサーがこっちを睨んでいる。良いお土産だ。
 パズルは年末年始を利用して組み立てることにした。ちょうどいい暇潰しになる。あとでジブリ用のフレームを買うことにした。
 荷物の中には他にキウイとキウイのお酒が入っていた。どうやら三鷹はキウイの名産地らしい。キウイのお酒は家族で飲み、キウイはりんごと一緒に袋に入れて後日食べることにした。楽しみが増えた。友人に感謝だ。
 
 ぼくは顔を赤くしながら、今日一日に満足した。
 

ベートーヴェン、気絶

 年末に合わせるわけではないけれど、この間盛岡の肴町を歩いていたとき、通りに出ていたワゴンの中にベートーヴェンの第九に関する本を見つけたのでおもわず買った。寒気身にしみる中、歓喜の季節になったというわけだ。
 今年の年末は片手間にこれを読みながら第九でも聴こうとかんがえた。
 タイトルは、その名もズバリの『第九』。
 著者は中川右介氏。第九がどのような聴かれ方をしてきたのかを描こうとする本だった。
 まだ半分も読んでいないものの、そこで面白い箇所を見つけた。
 時は1824年5月7日。
 ベートーヴェンが第九を書き上げてから初めての公演日だった。
 本には、「ベートーヴェンは自分が作った曲を早く演奏したいという、芸術的欲求で初演を急いでいたのではない。(中略)収入を得ようとしていた」とある。当時の彼は経済的に厳しく、早くお金が欲しかったのだ。懐が寒いなんて、まるでボーナスを期待していたのに出なくてがっかりしたおれじゃなイカ
 ベートーヴェンは自ら興行を打つつもりで公演会場を選ぶ傍ら、楽譜の出版社とも話をつけていた。学校の音楽室でよく見たあの人物が、ビジネスマンよろしく収益を算段していたとは。ぼくは急にベートーヴェンに親近感がわいた。
 二転三転した会場選びがようやく決まると、楽団、歌手も着々と決まってゆく。最も、歌手に変更があったり、ベートーヴェンの意向で演奏者の人数が増え、アマチュアからも加わることになったり、何かと慌しかった。リハーサルも片手で数えられる程度。
 そんなこんなで初演を迎えた。
 結果的には演奏後に拍手喝采がわき起こるほどだった。
 この拍手が、第四楽章後だったのか、テンポが早くて盛り上がる第二楽章後だったのかの説があり、或いはその両方で起こったのかもしれないものの、それはさておき、公演自体は成功と言ってよかった。
 上演後、ベートーヴェンは形ばかりで壇上にいて聴衆に背中を向けたままだった。すでに耳がほぼ聞こえなくなっていたから、気づかなかったのだ。他のひとがベートーヴェンの袖を引っ張り、そこでようやく万雷の拍手を送る聴衆を見ておじきした。
 のちにロマン・ロランというひとが当時のことを(と言ってもこのひとは会場に居合わせたわけではないらしい)感動的に書き綴っている。ベートーヴェンも感動のあまり失神したとのことだった。まあ、情熱的な音楽家なら有り得るかもしれない。
 ともあれ、聴衆は満足して帰ってゆき、ベートーヴェンもまた満足したそうである。ここまでだったら、めでたしめでたし。
 が、蓋を開けてみると、ベートーヴェンがあんなに躍起になっていた収益はなんと見込みの2割ほどしかなかった。2割引きではなく2割。これでは生活が回らない。
 だから、ベートーヴェンが気絶したのは実はそれを知ってからだった、との説もある。それが妙に面白かった。これは中川氏の文章運びが上手いことも挙げられる。試合に勝って勝負に負けた、とでも言うのか。本人には申し訳ないが。
 この初演の、成功なのか失敗なのかビミョーな結果がその後に影響したのか、しばらく第九は不遇の時代を送る。
 詳しいことは本に譲りたいけど、まず今日ぼくたちが聞いているような完全な形として演奏されてはいなかった。当時のひとたちにはとにかく「長い」曲であったらしい。どうせまだあんまりみんな知らないから、とベートーヴェンに内緒で一部をカットした短縮版で公演されることが多かった。時には第四楽章がまるまるカット、なんてこともあった。
 当然ながら、第九の歌唱言語はベートーヴェン母語、ドイツ語だ。
 もちろんこれは元になったシラーというひとの書いた詩もドイツ語であるからともいえる。日本で第九が演奏されるときも、大抵はドイツ語で歌われる。
 けれども例えば、当時英国で第九が公演される際は、音楽の発展した国イタリアの言語に訳された。そもそもドイツ語という一部の国でしか通じないことばで歌われても、聞いてる方としてはちんぷんかんぷんなわけで(多分歌っている方も)、カットしたりオリジナルを無視したり、でもそれが昔は普通だったようだ。
 それになにより、当時の楽団にとって第九はやたらめったら難しかったらしい。
 当時としては珍しい歌唱付きの交響曲だけに、ただでさえ奏者とは別に歌手を集めるだけでもひと手間なのに、やってみたらこれがまた演奏しづらい。そして、やっぱり長い。長いのは嫌だし、最終章には意味のわからない歌がついているし、そんなこんなでいつの間にか「奇妙な曲」とレッテルを貼られてしまった。
 今では世界中のひとびとが愛好している、おそらく世界一有名な交響曲であるのに、初めはボロクソだったのには、意外であり、納得もあった。
 大抵の有名人、名作は、批判と非難から始まるものだ。ぼくの好きな宮崎駿監督も、初監督作品の評価がイマイチで不遇に遭うし、宮沢賢治ゴッホなんかは生きているときに評価してなどもらえなかった。良いものほど、理解に時間がかかる。長いと煙たがられた第九もまた、その良さが受け取られるまでに長い時間が必要だったのだろう。生活費が気が気でなかったベートーヴェンはやってられなかっただろうけど。『運命』の冒頭部分がよく似合う。
 その後第九はメンデルスゾーンワーグナーらの活躍、さらには各国で楽団員の体制が整い技術力が上がってゆくに従ってようやく名曲としての地位を築いてゆく。
 ぼくはこの本を読みながら、ベートーヴェンの人間的な一面を知り、第九の遍歴を学べるような気がした。交響曲が、多くの楽器や声楽が合わさって成り立つように、第九もまた、多くの音楽家によって支えられて現在に至っている。
 本を読み終えたあとに聴く第九は、前よりちょっと違って聴こえてくるかもしれない。

人道橋

 2023年は、ぼくにとって太宰治にゆかりのある年となった。
 10月には、生家のある青森県五所川原市に赴き、長年の憧れであった斜陽館を見てきた。一時は旅館としても使われていたとあって、その贅沢な間取りに見惚れたものだ。本でしか知らない作家に間近で出会えたような、そんな錯覚をおぼえた。
 12月にその土産話を持って東京に行ったら、ちょうど太宰の愛した人道橋が今日明日にも取り壊されるという話を聞いた。太宰の暮らした三鷹に友人がいなかったら、そんなことも知らなかったかもしれない。
 これもなにかの縁、と捉え、特に予定のなかったぼくは、翌日早速その橋を見に三鷹駅へと降り立った。
 その日はとても天気が良かった。
 雲ひとつない空の下、武蔵境駅方面へ歩くこと数分、やけにひとびとが立ち止まったり往来している橋が見えてきた。それが三鷹跨線人道橋、線路をまたいで渡るための、まもなく解体を迎えるその橋だった。
 昭和4年に建てられたというその橋は、すっかりコンクリートがすり減っていて砂利が剥き出しになっていた。手すりも塗装剤に細かくヒビが入り、サビが一面を覆っている。古びた、というよりも、くたびれた印象を感じるのには充分なほどその橋は老朽化していて、なるほど解体の決定もやむなしとうなずける状態だった。それほど傷んでいた。
 ぼくは階段を登り、向こう側まで伸びる通路をゆっくりと歩いた。
 橋の上ではたくさんの人がカメラを手に写真を撮っていた。まるで急いで思い出を形にするように。失って初めてその有難さを知る、とよく耳にするけれども、ここにいるみんなは、まさに今そういう心情がわいているのかもしれない。
 ぼくも歩いたり、立ち止まったりしながら、橋そのものを眺めたり、橋の上から行き交う電車を見下ろした。そうして太宰がこの橋を歩く姿を想像してみた。
 正直言うと、大した橋でもなんでもなかった。
 渡月橋錦帯橋のように意匠ある造りでもなければ、レインボーブリッジや瀬戸大橋のように豪華で存在感のある造りでもない。いかにも実用的に建設された感のある、言ってしまえば味気のない無機質な、これと言って特別感のある橋ではなかった。偶然にも長い間存在した、というただ単に歴史の長さだけが取り柄のような橋だった。取り壊されると知っていなければ気にも止めないで通り過ぎていたことだろう。実際ぼくは数回ほど、ジブリのスタジオを見るためにこの沿線沿いを通った気がしたけれども(当時のぼくにとって三鷹と言えばジブリであった)こんな橋があるなんて気づいてなどいなかった。太宰に関係あることすらちっとも知らなかった。
 今わいわいやっているひとたちだって、ぼくと同様、なんか知らんけど解体されると聞いたからとりあえずノリで来てみた、という能天気な物好きが大半なんじゃないか。要は、ゲンキンなひとたちだ。いまいち盛り上がりに欠けるぼくは、そんな意地の曲がった目で周りのひとたちを見ていた。
 それでも、そんなひとたちをぼんやり見ていると不思議なもので、地元の人間でもなんでもない初めてこの橋を登ったぼくの心情にも、なんだかじわじわと一抹の寂しが込み上がってくるのだった。これは、ひょっとしなくても太宰の影響があるに違いない。
 本の中でしか知らない、生きていた時代が全然被っていないぼくにとって、この橋はその太宰が実在していたことを今に伝えてくれる数少ない現存物であった。あの生家、斜陽館や、その近くにある津島家別邸のように。その太宰の面影が染み付いているとでもいう橋がなくなってしまうのだ。それはやっぱり、寂しいものがあった。
 この橋は、太宰が三鷹に暮らし始めた頃だとまだ出来上がってから10年ほどで、古さを感じさせることはなかっただろう。それが今では親子3代の、或いは4代まで思い出になるほどの歴史を帯びた橋になっている。建てられてから今日まで、一体何万人の人々がここを往来したのだろう。床面のすり減り具合がそれをじっと物語っている。
 ここには電車の待機場もあり、停車中の車両がいくつも並んでいるところを見下ろすことができるからそれも見応えがった。親に連れられてきた子どもたちは作業員の方に手を振っている。橋が日常の一部であり、日常を繋いでいる。それを垣間見た気がした。
 ありふれた、生活のための橋として市民の身近にあったからこそ、消えてゆこうとしている今、こんなに惜しまれながらも親しまれているのだろう。ぼくはようやく橋そのものへおもいを馳せられる気がした。
 ひとつの橋がその役目を終えて消えてゆく。そこに立ち会えただけでも満足だ。
 橋にはひとが大勢いるものだから、ぼくはつい億劫がって、向こう側に渡るのを止して元来た道を引き返した。この、億劫がるところが、長年親しんできたひとと昨日今日駆けつけてきた旅人の違いなのだろう。あとはもう、三鷹市民に席を譲って、ぼくはトトロのシュークリームでも買いに吉祥寺に行こうとその場を離れた。
 太宰がいたら、橋の撤去についておもうところを書いたかもしれない。
 橋はこちらと向こうを繋ぐものだけれども、物理を超えて、太宰の暮らした昔とぼくがいる今とを繋いでくれたように、そんな風に感じるのだった。