STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

生の本質

 八十近くになる人と話をしていて、最近はまたレコードで聞かれるようになってきた、という話題になった。それも年配の方だけではなく若い人でも買うと言う。むしろ若年層の方に人気なのではないか、という話もした。
 イヤホンを通して聞こえてくる音楽は格段に綺麗になった。クリアになった、とよく表現されている。
 ご飯でいうところの、ひとつひとつの粒が立っている、みたいなものだろうか。一度に口に運んでも一粒一粒を感じられるように、音の解像度も増した。そうしてそれが、いまいち物足りなく感じる人もいて、それがレコードといういわゆるアナログなものを求める流れになっているらしい。
 そんな話を聞いて、いのち、或いは生きるということは、クリアであることよりもどこかノイズや揺らぎ、ズレというものをその本質に抱えているんじゃないか、とふとかんがえた。
 その八十近い人は、レコードの溝に針が触れる、その物同士が接触して震える空気がいいとか、確かそんなことを口にしていた。
 決して綺麗な音質ではないものの味がある。この、味という或る種の大雑把な例えの中に生の本質、むしろ生の音質が含まれているのだろうか。
 生きている、という感覚を生み出す、ノイズ、ずれ、揺らぎ。アナログの方があたたかみがあるという人もいる。それはつまりクリアな音ほど死の側に近いことになるみたいでかんがえさせられる。音質に雑味が消えてゆくほど体感的には冷たくなり、それが死んだ音となってゆくと仮定してしまうのはいささか急であろうか。
 そういえば、よく電車に乗っているのが心地いいという話も聞く。一見するとただゴトゴト唸っているだけのようなその音が、実は人間が母親のお腹の中にいるときに聞く音と似通っていて自然と安らぐかららしい。生きるというのは、ある程度の雑味がある方がいいのかもしれない。
 物体をベースとしている、それが生であるのなら、精神的なものなどはより死に近いのだろうか。いや、わざわざふたつに分けようとする必要もないかもしれない。レコード好きの若者でも年配者でも、アナログとデジタルをうまく組み合わせて好きな曲を聞いているのだから、安易に生の本質をかんがえるために生と死を分離させなくてもいいかもしれない。それこそ、本質からズレたノイズのような思案になってしまうだろう。