STUDIOwawon

STUDIOwawon(スタジオわをん)は、「かる、ゆる、らく」をモットーに、ことばをデザインしてゆくスタジオです。

らぬけ

 角川必携国語辞典には「らぬけことば」の項目があって、そこに「『らぬけことば』は、新しい『可能動詞』が生じつつあると認めることができる」となんだかおもしろそうな解説が載っている。
 調べてみると、このらぬけことばは昭和の初期から始まっているらしい。
「見られる」「食べられる」「着られる」などの動詞の「ら」を抜いて「見れる」「食べれる」「着れる」とつかう。文章でもときどき、会話であればほとんどのひとがらぬけで通しているとおもう。これから生まれてくる子どもなら「ら」がついていたこそさえ忘れてしまうだろう。
 一般的にらぬけことばは間違ったつかい方という認識を、とりあえずはされている。
 普段はらぬけでも改まった場、面接や会議の席では口にしないひとがまずもって大半であるに違いない。やはり本来なら誤ったつかい方であるとみんなが知っているからとおもわれる。ことば遣いでひとと形を判断されるのは今も昔も変わらないし、常識、もしくは良識、マナーも問われてくるから切り替えるときは切り替える。
 そんならぬけを、先の辞書ではどこか肯定的に捉えているようにも感じられて、そこに好感がもてた。ちょっと曲解すれば、らぬけとはこれからのことば表現の可能性をもっているとも言えるのかもしれない。
 ことばは形を変えてゆくから一概に間違っているとも言い難い。百年前なら不適当でも、今ではすっかり常識となった言い方なんてものは探せばほいほい出てくることだろう。
 現状のことば遣いを往年のひとびとが嘆く図式は百年前にも千年前にもあったはずで、多分それは自分の慣れ親しんだことば遣いが自分の知らないこれからのひとたちによって徐々に形を変えられてゆく、ないしは失われてゆくことに憤りにも似た憂いを覚えずにはいられないからかもしれない。そうしてその気持は歳を取らないとわからないものかもしれない。
 それはそれとして、ことばが変わってゆくのはマイナス面ばかりではなく常に新しい可能性をも多分にふくんでいる。変わることそのものが可能性とも言えるし、大抵のことば遣いの変化とはつかい勝手のよさをともなっている。こうやっておそらくは表現もまた多様で豊かになってゆく。
 たとえば「られる」ということばは、受け身・尊敬・自発・可能の四つの表現につかえるけれども、文章をパッと見たときにそのうちのどれをあらわしているのか、文脈からも推し量り難いことがある。文章ならわりかし探りやすい。けれども会話になるとなかなかまごついてしまう。
 これが「見れる」「食べれる」となると、「見ることができる」「食べることができる」と一発で可能の用途だけを扱っているとわかる。伝統や美しさよりも便利さ、と言ってしまうとどこかゲンキンな響きもあるものの、ことばは、すくなくともしゃべる分にはわかりやすく伝えられる形の方がいい。ことばはあくまで手段であって、目的にしてしまうと融通が効かなくなるのだから。21世紀の文学形式が、小説からブログやツイッターなどのSNSに変わっているように、ことばそのものも、らぬけどころか絵文字やスタンプに変わってゆく。そういった中に生身の人間は生きていてコミュニケーションをはかっている。
 現状では、らぬけことばはもう自明の表現として定着している。
 広辞苑の最新版にらぬけの形でことばが載っているのかは知らないものの、どこかの辞典には一般的なことばとしてもうあるかもしれない。そのうち教科書にも当たり前に出てきて、らぬけ問題はちいさな歴史として語られてゆくのだろう。
 ところで、「らぬけ」というどこか気のぬけた語感がまた妙におもしろい。

 どこかぬけたところのあるひとが案外好感をもたれたり、ここ一番の試験や勝負の際に力をぬくとあっさりことが運んだりするように、可能性を広げるときはなにかがぬけている方がうまくいくのかもしれない。